プラトン『イオン』あるいは吟唱詩人の言語行為

 ジュリアンのスラムに接して、プラトンの対話篇『イオン』を思い出した。古代ギリシャのむかし、一人の吟唱詩人(ラープソードス)がいた。彼の得意とするのはホメロスの朗詠。アスクレピオスの祭礼での詩の朗読大会で一等賞を勝ち取り、意気揚々と一人の賢者のまえに現れるが、君には一体どんな技術があるのか、と賢者に議論をふっかけられ、難癖をつけられる。その吟唱詩人の名はイオン、賢者は他ならぬソクラテスである。ムサの女神の霊感を吹き込まれた詩人の作品を吟唱詩人は朗詠し聴衆へと伝える。ムサの神気は「マグネシアの石」、磁気を帯びた鉄の指輪のようなものであり、つぎつぎと連鎖する。吟唱詩人とはムサの取り次ぎ人である詩人の取り次ぎ人にすぎない、とソクラテスは手厳しい。さらにソクラテスは吟唱詩人の朗詠は理性を失い神がかりになったものであるとみなし、吟唱詩人には固有の「技術」はないのだと批判する。ホメロスの詩句のなかにでてくる医者、御者や予言者の言葉は、それぞれの職業固有の知に基づく技術に裏打ちされている。そこに語られることがらが正しいかどうかを、それらの専門知識と技術をもたぬ吟唱詩人には識別できないだろう、とソクラテスは迫る。だがここでソクラテスが設定する論駁のロジックにはどこか違和感を覚えずにはいられない。はたして吟唱詩人に「技術」はないのか? イオンはもちろん納得しない。そして、吟唱詩人が識別できる職業として、将軍を挙げるのである。ここでイオンが主張する将軍の技術とは、戦闘指揮能力ではなく兵士を勇気づける能力である。『イリアス』を朗詠する吟唱詩人は、兵士を鼓舞する指揮官と等しい力を発揮しているとイオンは言いたいのだ。だがソクラテスは、その能力はあくまで指揮官に帰するものだと譲らない…。
 さて、どちらに軍配をあげるべきか。ぼくには圧倒的にイオンであるように思われる。オースチンJ.L.Austinの用語を援用するとしたら、部下を鼓舞する(命令ではない)将軍の言語行為、それは、社会的慣習の枠内で発動される「発話内行為」illocutionary actではなく、「説得」をその典型とする「発話媒介行為」perlocutionary actに属するといえるだろう。イオンはその例を挙げることで、吟唱詩人が「鼓舞」という発話媒介行為のプロフェッショナルであることをきちんと表明していたのである。たしかにオースチンの言語行為論は演劇的虚構を除外している。しかし、すぐれた吟唱詩人の「鼓舞」の技は、聴衆の心理に働きかけ、社会においてなんらかの主体的決意を促す現実的発話行為として機能することもあるだろう。イオンは、詩の吟唱の力のありかを、まことに的確にとらえていたのだ。それは、芸術的虚構と社会的主観形成の境界を軽々と飛び越える力である。