ペソアとハーンの秋

忘備録。勤め先の秋の祭りが猛烈な雨の襲撃に翻弄された9月はタブッキ『フェルナンド・ペソア最後の3日間』とペソア『不穏の書・断章』を読んでいた。遅まきながら、ポルトガル語からペソアを訳された澤田直先生のすごさを認識した。「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う」。フランスのモラリストたちを思い出す、切れ味抜群のペソアなのだった。「言いたいことなどなにもない。ただ私の不注意を働かせるためだけに書いているのだ。私は少しずつ、ゆっくりと、まるまった鉛筆で…ぐにゃりとした文字で、カフェでもたっらサンドイッチの白い包装紙に書いている。もっと上等の紙である必要はなかったのだし、白くさえあれば、なんでもよかったのだ。そして私は満足している。…夕暮れどきだ。単調で、雨も降らず、陰気で不確かな色調の光のなかに暗くなっていく…。こうして、私は書くのをやめる。理由はない、ただ書くのをやめるのだ。」書くことに対する気負いのない真摯な姿勢。ペソアと出会えた喜び。
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この秋ティーンエイジャーにLafcadio Hearn, Kwaianのリトールド版を読ませたこともあり、10月からしばらくハーン関連の読書。まず怪談を英語で読む。セツの口述を頼りに慎重で簡明に書かれた再話テクスト群の英語と対比的に、イギリスでの子供時代を振り返った「ひまわり」の英語が際立って饒舌でニュアンスに満ちていたのが印象的だった。語る対象の土地によって英語が変化する。「蟻」に顔を出すスペンサー流ダーウィニズムも面白かった。そのあと平川祐弘訳の『骨董・怪談』。解説にちょっと違和感を感じるところもあった。それから西成彦の名著『ラフカディオ・ハーンの耳』を12年ぶりに再読。大黒舞、瞽女、琵琶法師といった口承芸と文学との関係がラディカルに考察される。「耳なし芳一考」はやはり鮮やかだった。対比されるイエイツの妖精や森鴎外の近代衛生思想も興味深く、こちらも再読の意欲を掻き立てられた。ハーンのマルティニク時代ももちろんのことだ。