フォークナー・メモ2

昨年は体調を崩し中止せざるを得なかった平湯キャンプだが、今年は8月5日から無事に3泊のテント暮らしを楽しむことができた。読書とハイキングと焚火と温泉。至福のひとときであった。フォークナーの 『町』(冨山房、フォークナー全集21、速川浩訳)をほぼ読了した。

スノープス第2巻『町』。相変わらずフォークナーは事実の直裁な報告をしないのだった。事実そのものよりも事実が人々に与える心理的波紋を書くことが作家の関心事であり、また、語りが複数化しそれぞれのアスペクトから断片的に遂行される結果、物語全体は不透明な迂回に満ち、そこに語られる事件の核心部の理解は、読者にとって常に遅延される。そうしたわかりにくい語りの束から、根気強い読者は、『村』に続く近代化の波のなかで変貌してゆく20世紀前半(1909~1927年頃か)の合衆国南部社会へと案内される。(『村』における重要な記号である「馬」は『町』では「自動車」にとって代わる。)

チャールズ・マリソン、ギャヴィン・スティーブンス、V.K.ラットリフという3人の語りの交替のうちに進行する物語には、フレンチマンズ・ベンドからジェファソンへ、村から町へ流れてきた、南部にとっての「よそ者」フレム・スノープスが銀行頭取へとのし上がる経緯が描かれる。妻ユーラ・スノープスの不義と私生児リンダ・スノープスの悲劇。

しかし物語の進行において、フレム、ユーラ、リンダがドミナントな語りの主導権を握ることはない。作品の終わり近くでようやく出現するユーラの声はそれゆえ切迫感に満ちている。

リンダの悲劇の核心部に、彼女を愛したギャヴィンは遅れて気づく。「彼女はうんざりしたんだ。彼女は愛した、愛し愛され、愛を与え受ける資格があった。彼女は二度まで試みて二度まで失敗した、その愛に値し、愛を自ら求め、匹敵できるばかりではなく、それを受け容れるだけの勇敢さのある誰かを見いだすのに失敗した。そうなのだ。」(p.288)

フォークナーの語りはつねに間接的である。事件をその発生と同時的に当事者の語りによって報告することがない。つねに遅れてくる語りは、その間接性と複数性によって、土地の語り、チャールズ・マリソンが言うように「ぼくたち=町」(p.275)の語りとなる。

ヨクナパトーファという息苦しい南部の架空の閉鎖空間を描くフォークナーの世界。だがそこには、かすかな逃走線が書き込まれている。『アブサロム…』において燃え落ちるサトペン邸から脱出する混血の障がい児ジム・ボンド。『町』においてグリニッジ・ビレッジへ旅立つ私生児リンダ。そうした外部に通じる逃走線に目を凝らしたい。

荒正人は解説でおもしろいことを述べている。フォークナーを第一次大戦後の前衛的作家と比べて限界を指摘して、「強いて特色をあげれば、ヨクナパトーファの設定だけである。それは余りに地方的である。地方的であることは少しもかまわぬが、普遍的要素の脱落した地方的文学は困りものである。いや、フォークナーは、地方的であることに留まる自信を失って、国民的ないし世界的になろうとして動揺した。その点が最も弱点である。」(p.319) フォークナーと共振して『フォークナー・ミシシッピ』を書いたグリッサンもまた、カリブ海についてのディスクールから独自の世界論へと向かっていった。荒のこの批評はグリッサンにもあてはまるかもしれないなとふと思う。とはいえぼくは、まだまだグリッサンの世界論とつき合うだろう。そこに見えてくる風景に関心があるからだ。ギャバンへの戒めのように、あまり期待しすぎることなく、ただ生き、行動すればよいのだ。

フォークナー・メモ1は2012年3月だった。次のフォークナー・メモはいつになることやら。