オープン、フォークナー

 待望の中村隆之訳グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』を熟読する。

 アメリカ合衆国深南部ミシシッピ州に設定された架空のヨクナパトーファ郡を舞台に展開されたフォークナーの小説群。カリブ海のマルティニク島出身の黒人作家グリッサンが1996年に発表したこのフォークナー論は、いわばフォークナー的ディープサウスへのさらに南からの接近、介入である。南部農村社会の没落を描くフォークナー文学のなかにグリッサンはふたつの拒否を読み取る。ひとつは伝統的な叙事詩的連帯への拒否、もうひとつは混血化(クレオール化)への拒否である。そのふたつの拒否がサトペン家、コンプソン家、サートリス家などの家系の崩壊をもたらした南部の劫罰である。夥しい作品を通じて、フォークナーは奴隷制にもとづいたプランテーション社会がひきずる根源的な問題を道徳的立場から性急に糾弾することはない。原因−結果の直線的な開示は果たされない。ただフォークナーはつねに「後れてくる」言葉で語りえぬものを語りだそうとした。グリッサンはそうしたフォークナーにおける民話的、口承的な語りの果てしない堆積のなかから閉じた土地が開かれる様子を読み取る。「南部は...世界中の多くの地域に似ている。」(p.289)そこにはひとつのトポスの生の姿をつねに他のトポスのそれと重ね合わせて捉えようとするグリッサンの「関係の詩学」がみてとれるだろう。「私たちは、最初にやってきた植民地主義者や資本家のように、その場所を周囲への帝国主義的拡張として想像するのではなく、世界の至るところへの詩学的伝播として想像する。」(p.351)
フォークナーとグリッサンへの、そしてそこから別の場所への、すばらしいパサージュがひとつ開けた。