シンガプーラにて

7月下旬からシンガポールに4日ほど滞在した。北緯1度、ジョホール海峡を挟んでマレー半島の南端に位置する熱帯モンスーンの小さな島に降り立つのは初めてである。埋め立てによって領土を拡張してきた東京23区ほど土地に500万人以上の人々が住む。

歴史を紐解いてみると、ヒンズー教王国マジャパイトが15世紀に滅んだあとイスラム港湾都市としてムラカ王国の支配下となり、16世紀ポルトガルの侵攻を受けたあと荒廃し、19世紀に東インド会社ラッフルズによって貿易自由港として整備され発展した。太平洋戦争のとき一時日本に占領されたあと再びイギリス植民地となる。西欧による近代植民地化の波に飲み込まれたその土地は1963年独立したマレーシア連邦の一部となり、そのマレー人優遇政策に反発して1965年に離脱独立した。中国系74%、マレー系13%、インド系が9%を占め、英語、北京語、マレー語、タミール語が公用語。仏教、道教イスラム教、キリスト教ヒンドゥー教徒などがひしめく多民族国家である。中国系のバスガイドさんの説明によれば、学校では英語と母語を教わるが母語以外の言語を選択する生徒もいるそうだ。各々の言語や宗教が特権的に他を制圧することなく併存しているような感じもあるがどうなんだろう。むろん英語と中国語が強いのだろうが。 

チャンギ国際空港からバスで中心部に向かい、大きなホテルに滞在し、科学技術について英語で研究発表に臨むティーンエイジャーたちとともに研修会場であるふたつの大学を訪れるのが今回の旅。最終日に島の中心部のNature Reservoirを訪れたかったが、時間の都合でかなわなかった。手つかずの自然がほとんど残っていないといわれるこの人工的な島の自然に触れてみたかっただけに、残念であった。

参加者全員のために日曜日の夜ディナー・パーティーが開かれた。その会場はインド系の住民が多く住む公団住宅街のなかにある中華料理の店だった。住民の85%が公団住宅(HDB)に住むシンガポール。バスから降りるアジア各地からやってきた高校生の一団を、芝生に座って涼みながら休日の宵を過ごすインド系の人々が珍しそうに眺めていた。

移動中、よく冷房の効いたバスの前に大きなトラックが走ってるのが目に入った。マレーシアから仕事に来る労働者たちだろうか、幌がけした荷台に疲れた顔が揺られていた。近代的で清潔な中心部のビル街やよく整備された道路と、トラックで運ばれる労働者の表情のあいだには強烈なコントラストがあった。

シングリッシュ。OK,lah! センテンスの最後にラー。「こんにちは」は"Makan alrealy meh ah?" (いっぱい食べましたか?)。いいね。Makanはマレー語でeat。エレベーターに乗ったら、「じょーじくるー」「じょーじあぷ」という音声が流れてきた。しばらくして、Doors close. Doors open.だとわかった。/d//z/→/dʒ/, /ou/→/uː//ʌ/, /n/→欠落という感じ? 母音の変化は琉球語でも「そば」→「すば」(/soba/→/suba/)となるし、ちょっと似ているね。積読の一冊、西江雅之ピジンクレオル諸語の世界』を読むことにした。