世界文学におけるオムニフォンの諸相

 越境、移民、植民などによって母語から引き離された経験から生み出されるさまざまな文学の姿は、現在「世界文学」と呼ばれるものの重要な内実となっているといえるだろう。そこにはさまざまな場所が反響し響き合う。今福龍太と管啓次郎によるそうした新しい世界文学のアスペクトを提示する意欲的な講演会が明治大学で2日間にわたって開催された。2日目の日曜日のセッションを聴講した。
 午前中の今福セッションは「ダイアレクトから世界へ」と題され、ダイアレクトという一見極小的なことばの営みが、国家言語からいったん離脱し、それに距離を置きながら帰ってゆくダイナミックなポエティクスであるという事実を明らかにする。方言、俚言、土語の政治学。1932年宮古島生まれの詩人思想家、はやくから沖縄独立について発言されてきた川満信一さんからは、宮古沖縄本島、東京といった言葉の政治的グラデーションの話と作品の朗読。放浪(ゆらり)節という即興歌が興味深い。金子奈美さんによるキルメン・ウリベ論を聴きながら、あの小説はバスク語という自分たちの言葉の測量をおこなっているのだなあと思った。続いて中村隆之さんによるモンショワシー紹介。クレオール語で詩作することの意味が問われた。モンショワシー氏とは2004年に来日したときに早稲田で一度お会いした。2003年にカルベ賞をとったL'espère-gesteはサインをして頂いたけど未だにちゃんと読んでいない。読もう。
 「越えながら書く」と題された午後の管セッションでは、越境する創作の現場を目の当たりにした。台湾生まれの温又柔(おんゆうじゅう)さんは「ろうそくの炎」の朗読会でお会いしたが、その芯のしっかりした柔らかくシンプルな日本語に潜む台湾語や中国語との緊張関係のお話しが興味深かった。『来福の家』を読もう。そのあと「尖閣」についての問題が俎上にのった。中国語でエッセイを書き続ける林ひふみさんは、一連の反日デモに対する冷静な視線を失わない中国人ジャーナリストの数は多いと指摘されたのに対して、リービ英雄さんは、さまざまな文化交流がその直撃を受けている事実を生々しく語られた。岩に刻みつけるようなリービさんの日本語は、思考が深まるとスピードを落とし噛んで含めるような歩みになる。その緩急のインパクトは凄い。川満さんは、沖縄をナショナリズムのつばぜりあいの接点ではなく非武装中立地帯にすべきだと語った。リービ英雄さんの著作を読まなければ。体調すぐれずディスカッションの最後までいられなかったのが残念だった。