アチュベとラトゥール

正月恒例の志賀高原スキーのあと、5年ぶりにインフルエンザにかかってしまった。熱はすぐ引いたがしばらく外出できず、アチュベ『崩れゆく絆』(粟飯原文子訳、光文社文庫)を読了。読了後しばらく何とも言えぬ幸福感を味わった。アフリカ文学の第一人者による周到な解説とすばらしい翻訳。訳者の作品に対する情熱がひしひしと伝わる一冊だった。

19世紀後半、イボ族が住むナイジェリア東部州のウムオフィアという架空の土地を舞台として、イギリスによる植民地化に巻き込まれる主人公オコンクァの悲劇の物語が展開する。全体の3分の2を占める第1部ではイボ族の生活文化が、反復の多い口承的語り口によってみずみずしく描写される。集落からのオコンクァ追放を描く2部を経て、白人宣教師やイギリス当局との軋轢、主人公の悲劇的結末を語る3部では直線的な小説的語りにシフトする。読むスピードがどんどん上がるので、読者は語りのシフトチェンジを実感するだろう。このあたり、「いかに語るか」が「何を語るか」と直結する作家の戦略がうかがえる。英語の原文を見ていないが、訳者解説(p.337)によると、イボ語の直接挿入や、イボ語特有のことわざ/言い回しが英語に直訳されることによって英語構造に揺さぶりがかけられる部分も随所にみられるという。こうしたランガージュのふるまいは、宗主国の言語によって現地の文化を描こうとする作家に特有の戦略と言えるだろう。

植民地化と現地文化の対立、とくに宗教における対立の物語が興味深かった。21章でウムオフィアの有力者アクンナと白人宣教師ブラウンとの対話である。ブラウンはイケンガ(勤労、成功、勝利などを象徴する神)の彫像がかけてある垂木を指して、アクンナに向かってこう言う。「あなたがたはそれを神と言っていますが、単なる木切れにすぎません」。アクンナは反論する。「そのとおり木切れですよ。でも、それはチュクウ(天地を創った最高神)がお創りになった木からとったものです。ちいさな神々もまたしかりです。チュクウは神々を使者として創られました。それで、わたしたちが神々を介してチュクウに近づくことができるのです。あなたのようなものですよ。あなたは教会の長でしょう」(強調引用者)[…」この対話によってブラウン氏はイボ族の信仰を大いに学び、正面攻撃をしたところでうまくいかない、という結論に達する。木切れがただのフェティッシュだと断じようとするブラウンはまさに同じ論理でアクンナに応酬されるのだ。たとえばブリュノ・ラトゥールが『近代の〈物神事実〉崇拝について』で議論しているFaitiche論の出発点もこれと同様であるように思われる。もし宗教対話だけが問題であったなら、ふたつの宗教は相互理解を深めて平和共存したのかもしれない。しかし歴史的現実はむろんそうではなく、教会を水先案内として植民地化の暴力が押し寄せる。

イボ族であると同時にクリスチャンの両親のもとイギリスの教育を受けたアチュベは、イボの文化に再アクセスするためにこの小説を書く。しかし自身の成育歴もまたそのアクセスの仕方に影響しているだろう。宣教師のもとに集った最初の現地人は、現地の宗教観によって忌まわしきものとして森に捨てられる双子の子供たちやイボ社会における被差別民オスたちである。キリスト教会がこうした人々を救ったことは事実なのだ、と描かれる。アチュベの宗教の描き方の陰影は深い…。

そうだった、読み損ねてるプラシャドの『褐色の世界史』も粟飯原さん訳だったことを思い出した。読まなくては。