『プレザンス・アフリケーヌ』第2回研究会にて

午後、外大AA研の第2回『プレザンス・アフリケーヌ』研究会を聴講。仕事に追われて1時間近く遅刻。佐久間寛さんの発表「プレザンス・アフリケーヌ誌目録の構想と初期の概要(1955−1960)」の途中から拝聴する。佐久間さんによるデータベース化で、1947年に刊行され、現在まで続く「プレザンス・アフリケーヌ」誌の全貌が明らかになりつつある。すばらしいお仕事である。同時に「セゼールとモース――脱植民地期の黒人知識人と人類学の対話」と題された発表から多くを学ぶ。1956年の第1回国際黒人作家・芸術家会議で発表されたセゼールのきわめて重要な論考「文化と植民地支配」。そこで黒人の文化的・政治的連帯の可能性を示すときに重要な参照項となるのが、モースが1929年に発表した論考「文明:要素と形態」であった。モースによると「文明」とは次の4つの特徴を示すという。1)間ナシオン性かつ超ナシオン性。2)型typeないし形式formeの選択的借用。3)選択的借用は集団的意思volontéによってなされ、そこに境界limiteないし領域aireが存在する。4)文明は複数的な存在である。セゼールは国民「文化」の個別性を超えて、普遍的なニグロ・アフリカ「文明」を構想するときに、モースの説く文明の間ナシオン性に依拠する。さらに、文明においてあらわれる型の選択的借用は集団的意思の所産であるというモースの指摘に立脚して、黒人がみずからの文明を構築するためには、その選択の主体となる必要がある、と自論を導く。文化と政治を切り離そうとする点でフロベニウスは批判される。セゼールは黒人の政治的イニシアティヴを求めるのである。このようにみてゆくと、セゼールは実に巨視的に黒人文化ないし文明を論じようとしていたことがわかる。グリッサンがセゼールを「世界をうたう」詩人として追悼した(『ラマンタンの入江』)のも納得される。
続いて小川了先生による発表「Hosties Noiresに至る道――B.ジャーニュとW.E.B.デュボイスからL.S.サンゴールへ」は深く文学的であった。「プレザンス・アフリケーヌ」1971年2月号に掲載されたサンゴールの「ネグリチュードの諸問題」。そこではネグリチュードの源泉としてデュボイス、ハーレム・ルネッサンス、マーカス・ガーヴェイといったアメリカの黒人運動が言及されている。ただサンゴールのネグリチュード論の視界に欠落しているのがフランツ・ファノンとブレーズ・ジャーニュBlaise Diagneである、という小川先生のご指摘は興味深かった。黒人であることの苦悩との対峙からアルジェリア解放へと向かったファノンと、セネガル植民地の黒人がフランス市民権を獲得できるように、同植民地に兵役を義務化し、セネガル歩兵部隊の組織強化を推進したゴレ島生まれの政治家ジャーニュ。その二人の歩んだ道はサンゴールのネグリチュードの「外」と「闇の奥」をあぶりだしているのだろう。第一次大戦後、ラインラントに進駐した連合軍のセネガル兵に対する白人の恐怖と嫌悪感は"honte noire"という言葉に象徴される。「黒い恥」という黒人兵への誹謗中傷を浴びせられたジャーニュの屈辱感。ネグリチュードの鬼子、ジャーニュはここできっと自らの「黒さ」と対峙しただろう。そしてサンゴールはその屈辱を引き受け反転させるかのごとく、自らの詩集のタイトルに"Hosties Noires"(黒い聖体)と名付けたのだった。個人の生のずっしりとした重さを伝えるのは、文学的なアプローチをおいてほかにはない。サンゴールが編纂した名高き『ニグロ・マダカスカル詩集』を今こそしっかり読もう。