コーヒーの話

 先日、勤め先でティーンエイジャーとともに、17世紀ロンドンのコーヒーハウスの社会的機能と現代のSNSを比較する英文を読んだのがきっかけで、本棚から臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史がまわる』(中公新書)を引っ張り出して読みはじめた。きのう吹きっさらし柴又野球場で息子のソフトボールの試合を応援したおかげですっかり風邪をひいてしまい、頭が朦朧とするなか、熱いコーヒーをすすり、バッハの「コーヒーカンタータ」を聴きながら本日読了。
 
 起源譚にスーフィズムも絡む「黒いザム・ザムの聖水」はイスラーム世界からヨーロッパに伝わり、1652年にロンドンに最初のコーヒーハウスが開店する。その後アムステルダム、パリ、ウィーンと17世紀にはカフェ文化が花開いていった。バッハのほうは、コーヒーをやめられない娘リースヘンに、やめないと結婚させないぞ、と父親シュレンドリアンが脅しをかける他愛もないお話し。なぜ父親は娘にコーヒーを飲ませるのを嫌ったのだろう。値段が高かったからかな。この曲は1732年頃、ライプツィヒのコーヒーハウスで初演された。ライプツィヒに最初のコーヒーハウスが開店したのは1694年、この頃コーヒー豆の供給源はイエメンだけだったという(同書p.41)。しかし18世紀になると、マルティニクやグアドループが強大なコーヒー生産地として台頭してくる。1723年、ドゥ・クリュニーなるフランス人歩兵大尉がマルティニクに苗木を持ち込んで以来、コーヒーはサトウキビとともに、西インドの島々で奴隷労働者二グロの黒い汗として結実する。そのコーヒー、ドイツではどのくらい高価な嗜好品だったのだろう。「コーヒーカンタータ」が初演された18世紀前半、ロンドンではすでにカフェは衰退し、ティールームが登場する。17世紀のロンドンのコーヒーハウスはビジネスや学問を議論する男性中心社会だったが、優美な紅茶文化は女性のイニシアチブで発展していった。すこし遅れて盛況となるドイツのコーヒーハウスはどんな様子だったのか。リースヘンは男勝りであったのか、単なるカフェイン中毒であったのか。さて、久しぶりに聴いたCDの演奏は合奏がコレギウム・アウレウムにエリー・アメリンクのソプラノ。ハンス・マルティン・リンデの素朴なフルートの音色がぼくは大好きである。

 それにしても臼井先生のこの名著。授業の軽妙な語り口を思い出す。臼井先生、お元気でしょうか。第6章「ドイツ東アフリカ植民地」から多くを学ぶ。全体主義の起源はヨーロッパ列強のアフリカ植民地支配にあったのだ。アーレントを読まなくては。終章で引用された『悲しき熱帯』の一節でレヴィ=ストロースはコーヒー・モノカルチャーによって「土地は凌辱され、それから破壊された」と記す。そして生産過剰で値崩れしたらあっさり廃棄されてしまう資本主義商品作物の悲劇。「華麗なフェティシズムと陰惨な搾取とを繰り広げた近代の典型的な商品」には別の苦さがにじんでいる。