セゼール台風

夕立をきわどくかわして国分寺東京経済大学へ。「カルチュラル・タイフーン」と銘打たれたカルチュラル・スタディーズ学会で注目のセゼール・セッションを聴く。ネグリチュードの詩人エメ・セゼールを〈植民地主義〉〈アフリカ〉〈シュルレアリスム〉というキーワードに照らして大胆に読んでいこうとする、オーガナイザー中村隆之氏を中心とした意欲的なセッションである。発表の合間に流されたセゼールのテクストを用いた映像作品もよかった。
廣田郷士氏の発表は30年代のセゼールにフォーカスしてネグリチュードシュルレアリスムコミュニズムナショナリズムの関係を探った。1941年にブルトンに会ったとき、セゼールは自らの方向に確信を得た。シュルレアリスムとの出会いによって、セゼールは大胆さを獲得したのだった。コミュニズムに関しては、引用されたドゥペストルとの対話のなかで(René Depestre, Pour la Révolution, Pour la Poésie, 1974, p.160)、「ニグロ問題」を省みない「フランスの抽象的なコミュニスト」たちへの不満がはっきりと語られている。そしてもっとも刺激的だったのはネグリチュードのナショナリスティックな性格の水脈としてモーリス・バレスが参照されたことであった。バレスが語った「土地から根扱ぎにされた人々」les déracinésへの共感がネグリチュードに潜在するのではないか。アフリカの民としての国民創生神話への模索と全体主義化への慎重な留保という葛藤が30年代のセゼールにうかがえるのでは、と廣田氏は指摘された。うーむ、バレスを読まなくてはならないのか...。 
粟飯原文子氏は50年代のセゼールの軌跡を追いつつ、セゼールの思想の「第三世界性」を考察された。1955年、改訂版『植民地主義論』がプレザンス・アフリケーヌより出版、1956年に第1回黒人作家芸術家会議での「文化と植民地支配」講演、そして『モーリス・トレーズへの手紙』を公表し共産党離脱、その後地元政党であるマルティニク進歩党を結成。セゼールの「転機」を粟飯原氏は1956年に見る。この時期、セゼールは共産主義からアフリカ・ディアスポラへの連帯へと眼差しを向けた。マルティニク市長の座にあったセゼールの政治的スタンスはたしかに民族解放闘争のただなかに身をおいたファノンとは異なっているだろう。だが同時に、アフリカ文明という時間の縦軸、植民地状況という空間の横軸の双方から連帯を呼びかけた「文化と植民地支配」のディスクールが、さまざまな第三世界の自己組織化をうながす力と射程をそなえていることもまた間違いないだろう。
 佐久間寛氏の発表では「文化と植民地支配」のテクストを支えるマルセル・モースについて綿密に考察された。原典の記載なしに引用されているモースのテクストはアンリ・ベールが1929年パリで主催した国際会議での講演「文明:用語と概念」。セゼールが「文明」という用語を持ち出すとき、モースへの依拠とモースからの距離を読み取る必要がある。
 粟飯原氏と佐久間氏の発表を通じて、あらためて「文化と植民地支配」のテクストの重要性を認識した。西谷先生、星埜先生、本橋先生など豪華な聴講者からのコメントもふくめて、le quatorze Juilletにふわさしい、きわめて充実したひとときだった。さあ、すこしずつエンジンをかけていこう。(7月25日記)