『チリの地震 クライスト短編集』

種村季弘訳の河出文庫版でクライスト(1777−1811)の短編集を読了した。災害共同体が一瞬にして反転する「チリの地震」をぼくらは噛みしめる必要がある。クレオール小説の先駆け「聖ドミンゴ島の婚約」。怪談「ロカルノの女乞食」をインタールードとして「拾い子」におけるNicolo/Colinoのアナグラムが善意の豪商を破たんに導く道行きを追跡する頃には、制度的美徳の表層を冷静に引き裂く緻密なアウトサイダー、クライストの世界に引きずり込まれている。「聖ツェツィーリェあるいは音楽の魅力」は聖像破壊運動にのぼせる急進的な若者たちを打ちのめす音楽の魔力を発散する。白眉は「決闘」。種村訳の読み下しにくさはここに極まる。粘り強く読み進めよう。闇に突き落とす運動は上昇へと反転し光へ向かう。未完の「話しながらだんだんに考えを仕上げてゆくこと」はひとつの即興論である。「私の思うに、世の大弁論家のなかには、口を開いた瞬時にはこれから何を言うことになるかを自覚していなかった人がいくらでもいたはずである。しかしながら彼は、自分に必要なあふれんばかりの思想なら、すでにおのれを取り巻く状況とその結果としてのおのが情念の昂揚からしておのれ自身がこれを創出するにちがいないと確信しており、この確信あってこそ無謀にも何とかなるさとばかり口火をきるはずみになるのである。」(p.208)「マリオネット芝居について」は舞踏論。優美とはなにか。
 就職したばかりのとき、ことばにかかわる仕事をするのだからこれは読まねばならぬと心に決めて挑戦したのが、父の書棚にあった昭和27年発行の高橋義孝編『森鴎外翻訳珠玉選(上)(下)』。たしかそのなかにクライストがあったような気がしてぼろぼろの文庫本を引っ張り出してみたら、上巻になんと「地震」が収められていた。