『ルル』

 先回のWC研で取り上げられた『ルル』についての覚書。テクストはF.ヴェデキント(1864−1918)によるルル2部作、『地霊・パンドラの箱』(岩波文庫、岩淵達治訳)。「地霊」は1895年に出版。「パンドラの箱」は1904年に単行本になるが猥褻文書として押収される。ベルリン高裁で無罪となり、1906年に抗議声明的な性格をもつ「序文」つきの第3版が出版された。ヴェデキントはブレヒトに多大な影響を与えた。アルバン・ベルグ(1885−1935)はそのテクストのオペラ化を試みたが、第2幕まで完成して没する。1937年のチューリヒ初演以来、『ルル』は2幕のかたちで上演されてきたが、残されたオーケストレーションやスケッチをもとにフリードリヒ・ツェルハが第3幕を完成させ、パトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮でセンセーショナルな「完成版」初演がなされたのは1979年である。WC研ではアンドリュー・デイビス指揮、シェーファーがルル役をつとめた1996年グラインドボーンの映像で第3幕を見た。壁に収納される階段が面白かった。家で79年のブーレーズの録音を全曲通して聴いてみた。ルル役はストラータス。
 ヴェデキントのテクストにおけるルルは、なんといっても「地霊」プロローグで「猛獣使い」によって「蛇」と呼ばれ、ピエロの衣装で舞台に登場することで強烈に印象付けられてしまう。関係する4人の男性を次々に死に追いやるファム・ファタルとしてのルル、という見方もできようが、男たちはルルという鏡に映し出される自らのエゴイスムとファンタスムの過剰によって自滅してゆく。そして自由奔放でつねに自分自身であろうとするルルもセックスを商品化して自らから切り離したとき、自滅する。メディア権力の消失や株式の暴落で泡のような富を失い没落する人々のむき出しの欲望とコミュニケーション不全が生む必然的挫折の悲劇。
 アルバン・ベルグの『ルル』は20世紀という時代を泳ぎわたっている。Douglas Jarmanが指摘するように、音楽やテクストなどさまざまな局面で精緻な構造が設定されている。注意すべきは複数の劇中人物の兼任キャスティング。たとえば画家は黒人と、シェーン博士は切り裂きジャックと同一の役者で演じることが指示されている。そうした兼任によって、Jarmanによれば人間の置換可能性interchangeabilityが提示される。たしかにそう思う。その構造的フレームによって、悲劇の構えは一段とスケールを拡張し、ルルに恋焦がれる特定の個人はアノニマスなテイストを増幅させ、観客を含めたルルに向かう人間一般の表象へとステップを踏み出しているように思える。また、随所にあらわれる多人数の登場人物のディスコミュニケーション的重唱も圧巻である。