影の反オペラ

 神楽坂のシアターイワトで高橋悠治のコンサートを聴く。充実した一夜であった。1曲目、高橋悠治作曲『さらば佐原村』は辻まことの唯一の詩による歌曲。僕にとって辻まことは山歩きのエッセイストであった。陰影に富むメゾ・ソプラノの波多野睦美は何と音程の正確な歌い手だろう! 休憩時間にすかさずCD『ゆめのよる』を買う。パーセルも聴いてみたい。ふとエマ・カークビーを思い出した。2曲目、ショスタコーヴィチ作曲『コントラルトとピアノのための組曲〈マリーナ・ツヴェターエヴァの6つの詩〉』Op.143。自殺した詩人が権力の犠牲者たちを歌った歌詞に最晩年の作曲家が自分の過去をふりかえりながら曲をつけた。余計なものをそぎ落とした言葉と響きが浮上させる詩人の声。休憩のあと、高橋悠治作曲『〈納戸の夢〉あるいは〈夢のもつれ〉』。圧巻である。解体されたシューマンの「夢のもつれ」の断片がぼくにはとても印象的だった。「納戸」という「冥界」と日常の交換。波多野睦美の圧倒的な表現力。Ayuoのブズーキとピアノの対照。それらの響きは「混じり合う」ような代物ではない。複数の世界の往還。変幻。反権力を貫く音楽たちはまた、死の影を色濃く落としている。
 それにしても高橋悠治のピアノは他のどのピアニストからも聴こえない音の有機的連鎖を生み出す。魔術のようにそれに引き寄せられていく。