ジャン・ジオノ『丘』

 管さんが4月22日の読売新聞書評で取り上げていた『丘』(山本省訳、岩波文庫、原文1929年)を読んだ。強烈である。オート・プロヴァンスの丘陵に囲まれた小さな集落に突然異変が訪れる。泉の枯渇、山火事、子供の病気...。それらは「丘」の怒りであり、それを誘発しているのが死にかけているジャネ老人のせいだ、と人々は思い込み、老人の殺害が企てられる。しかし老人の自然死によって「父殺し」という西欧的悲劇は直前で回避され、老人の死を契機に山火事は鎮火し、泉は復活し、村は救済される。キリスト教をバックボーンにもたないジオノの汎神論的自然観によって、人間に対する自然の恵みと暴力の両面が描き出される。小説の末尾で、危機を脱した村人が意気揚々と仕留めた子猪の皮が、血の涙を流しながら風に舞う様子は印象的である。人間の犠牲となった動物の悲劇によって物語は幕を閉じるのである。ジオノの描く自然は決して人間中心的ではない。荒々しい生命の力と力が轟々と音をたててせめぎあっている自然の総体が浮上する。人間はその一部であるにすぎない。
 自然描写とともに作品の核となっているのが、自然の営みを反射して紡ぎ出される人々の言語行為の姿である。幻視者ジャネ老人のうわごと、さまざまな厄災を丘の悪意でありその張本人がジャネであると解釈する村人たち。訳者は解説で「想像力は誤謬と虚偽の女主人である」というパスカルのパンセの一節を引いているが、そうした言葉たちは妄想的であると同時に自然の振舞いと絡み合い、そこから生み出される。その様子もまた印象的である。「科学」にはほんのわずかしか場所を与えられない(医者とラスパイユの家庭医学書。前者は役に立たず、後者は自然と結びつく命綱だ)。自然と響き合うことばたち。詩がそこにある。
 自然は美しく暴力的だ。昨日の昼過ぎ、善福寺川沿いで子供と遊んでいたら妙な風と雲ゆきに不安になり、あわてて自転車をとばして帰った。突然の豪雨にもう少しでやられるところだった。午後、北関東で竜巻がおこり大きな被害がでた。その夜、風雨が去り透き通った大気のなか、満月が放射する光が煌々と照りわたり、ベランダから見える屋根瓦と木蓮の葉と月を見つめる息子の頬を白く濡らした。