サルトル学会

 炎天下の池袋、立教大学サルトル学会に出かけた。3人の発表を聞き、今日もたくさんのことを学んだ。中村隆之氏の「サルトル/ファノン試論」では、LamouchiのJean-Paul Sartre et le tiers monde(1996)をひきつつ、サルトルが「黒いオルフェ」などの反植民地主義ヒューマニズムから一歩踏み出し、60年代以降の第三世界主義的視野を得るときにファノンが大きくかかわっていると指摘された。人種なき人間の総合を目指す運動のさなかで「ネグリチュードとは弁証法の弱拍である」というサルトルの図式に対して、なにかに解消不能の黒人の実存を突きつけたファノンのディスクールは、きっと、果てしなく引き伸ばされたドミナント・セブンスのコード上に展開するペンタトニックのメロディなのだ。今、ファノンをどう読むのか。階級闘争? 民族主義? 澤田直氏の「呼びかけの経験」というコメントが印象に残った。ファノンを読みなおそう。
 関大聡氏の発表はサルトルの自由と遊戯について。jeuというタームを定点測量地としてサルトル美学の進展を追う。疎外された孤独な自己を救済する芸術=遊戯、そうした遊戯観の批判とともに提示される社会参加への姿勢。くそまじめな生き方をいったん捨てて遊ぶ人がいる、その人がアンガジェする、そのアンガージュマンに自由があわられる、というわけか。《jeu》の射程は広そうだ。『存在と無』の後半にでてくるスキーの哲学は興味深い(ぼくはスキーヤーだから…)。でも大学時代に読んだときは途中で放り出したのでその話までたどり着かなかった。再チャレンジしよう。
 岩野卓司氏によるサルトルバタイユ。めちゃくちゃ面白かった。真昼のサルトルvs真夜中のバタイユ。とにかくブランショバタイユサルトルの豊富な原文引用プリントが貴重だった。こんな能率のよい入門はない。明かし得ぬもの、語り得ぬものの存在を巡るスリリングな応答。L’être est l’absence que les apparences dissimulent.(Bataille) あなたはどう思う? (7月23日記)