タルコフスキー『ストーカー』

WC研。タルコフスキーの『ストーカー』(1979)を観る。ストルガツキー兄弟脚本、160分の大作。タルコフスキー特有の「水」、それも油の浮いた汚い水が広がる。線路、列車、汽笛、迷路といった反復されるタルコフスキー的記号。
「ゾーン」に入り込んだ道案内のストーカーと、客である「物理学者」と「作家」の3人。逆戻りは許されずつねに前進を強いられる彼らの道行きは、ただ望みのかなう「部屋」を目指す。果たしてどこにたどり着くのかわからないサスペンスだけが進行する映画的時間を支える。ストーカーは詐欺師なのか、ゾーンの聖性に仕える僕なのか。その正体は両義性を帯びてゆらぐ。無意識の欲望をかなえるという「部屋」の前で、2人の客はそこに入ることをやめる。しかしゾーンの破壊を物理学者は断念する。ゾーンは人類の救いなのか? 破滅へ導く危険地帯なのか? 廃墟なのか? チェルノブイリを予言する原子力発電所のような風景が広がる。ゾーンの両義性はストーカーの両義性と表裏一体である。『ゴドー』や『城』が脳裏に浮かぶ。こういった神秘性、ぼくはわりと趣味ですね。
 会のあと、いつものところでアイリッシュ・エールを一杯飲み、気分転換に中古レコード屋を覗いたら、Earth, Wind&Fireのビデオ・クリップ集のLD(The Eternal Vision)を見つけて買ってしまった。500円也。家に帰り、懐かしのBoogie Wonderlandのクリップを観て吹きだした。