大辻都『芸術大学でまなぶ文芸創作入門』

 京都造形芸術大学でクリエイティブ・ライティングを教える大辻都さんによる快著。1ヶ月以上前に読了していたが、ようやく感想文を書く余裕ができた。
 第1部「クリエイティブに書く!」では作品の細部に接近して、実践的文芸理論をやさしく解説。授業で創作された生徒さんの作品も取り上げられている。「語り手」「筋」「会話」についての考察が興味深かった。まずは、語り手の問題。1人称で書くか、3人称で書くか。ジュネットの用語を使えば、主人公が自らを語る「自己物語世界」を設定するのか、証人が主人公を語る「異質物語世界」を設定するのか。1人称の語りは3人称の語りに比較して視野が狭くなる欠点をもつ反面、限定された視点がもたらすサスペンスを表出する利点がある。2人称の語りは実験性についてはいろいろ考えさせられた。多和田葉子が引き合いに出されていたが、主語が「あなた」となると小説世界に独特の冷静な距離感が導入される。親密なコミュニケーション空間を立ち上げるはずのものが同時に強烈な他者感を醸し出してしまう不思議な2人称。そこにあらわれる距離感がメタ・フィクションの語りを生む、とでもいえばいいのだろうか。むろん、小説の語りの様相が人称の特性に還元されるわけではない。3人称の語りがつねに全知であり広く明晰な視野をあたえてくれるものでないのは、フォークナーのナラティヴをみれば明らかである(信頼できない語り手の束)。ともあれ、こうしたナラトロジー議論はやはり面白い。
 続いて、プロットとストーリー。当然アリストテレスのミュトス(プロット)、そしてフォースターの『小説の諸相』における議論が参照される。プロットとストーリーは理論家によっていろいろな解釈が試みられているが、さしあたって時間に沿った語りの流れの様相をストーリー、出来事の因果関係をあぶり出し再構成したチャートがプロット、とでも理解しておこうか。小説がプロットを備えている必要があるのかどうか、ということは大きな議論となる。フォースターはストーリー派でしょうか。
 さらに、会話。会話/地の文の配置のダイナミクスによって情報の様相は一変する。会話分析は小説におけるポリフォニーという大きな問題につながってゆく。たとえはドストエフスキーにおける分身、対話状態にある自我。ひとつのテクストに内在するさまざまな声。
 第2部「クリエイティブに読む!」ではロングショットで作品の比較分析。分析の視点もさることながら、読書欲をそそられる作品紹介にもなっている。桜庭一樹の『赤朽葉の伝説』は面白そうだ。ブロンテの『ジェイン・エア』とリースの『サルガッソーの広い海』の比較はポストコロニアル批評の基本線。とにかく本書は「読み物」として面白い。書こうとする人だけでなく、読もうとする人にもおすすめの1冊。現代における文学の意義を語るつぎの一節を噛みしめたい。「自分とは異なる遠い他者への想像力をうながすというのは文学の一番重要な役割だと思います」(p.174)。その通りです。わかってるのか、文科省
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 ところでプロットとストーリーのところでいろいろなことを考えた。タルコフスキーの『ストーカー』は、語り手がカメラアイだとしたら、かぎりなく一人称小説的な視野の狭さを示した自己物語的世界を表出している。さらに、後戻りの効かぬ直進性がプロットよりストーリーの優位を押し出しているともいえまいか。直進しかできない迷路、魔除けのカンピ・コーラムのような道行きをわれわれは辿るしかない。こうしたナラトロジー的な枠組みも、あの作品のサスペンスを醸し出す舞台装置であるとも言えそうだ。
 プロットに対するストーリーの優位は即興芸術の基本的性格といえる。だが市場に流通している作品=商品を相手にするとなると、そこには編集というプロット構成作業が必ず入っているので単純な議論は禁物である。たとえばキース・ジャレットの最新作『クリエイション』は、いくつかの純粋即興コンサートが編集されている。演奏自体は純粋な即興(=ストーリー)であるにもかかわらず、いくつかの即興ピースが効果的なプロットたり得るべく編集されているわけだから。