社会にとって美とは何か

2月3日、グリッサンが逝去してから1年がたった。本当にあっというまの1年だった。地震原発事故があり、糧を得る仕事の環境が一変し、身体が不調の兆しを示し始め、息子はどんどん育っていった。敵と味方でしか人間関係をはかろうとしない冷徹な橋下旋風が吹き荒れ、将来日本は中国化するとささやかれ、経済は金融にふりまわされ、人がそのなかで日々を生きるさまざまな社会システムは至上命令のごとく精度をあげ、それに反比例して人の心の空き地はなくなっていった。ただ、森のなかを歩くぜいたくだけが残された。森の神秘、それは植物や鉱物や水や光が交響する生の複合体の経験だ。去年の11月に歩いた北八ヶ岳を思い出す。午後のやわらかい日差しがゆっくりと夕暮れに向かっていく静かな時間。溢れる緑、林間を縫って流れるいくつもの水流、その水音。

パリ在住の中村くんから送られてきたパトリック・シャモワゾーのテクストを読んだ。グリッサンの1周忌にL'institut du Tout-MondeのFestival des Resistancesで読みあげられたものだという。

本当の抵抗とは、美へと向かう。快活さへ、詩的なるものへ、他者へと向かう。その抵抗は貧しいドグマではなく「関係」へと向かう。戦士とはただ支配の転覆をねらうのではなく、もうひとつの地平、もうひとつの世界を想像するものである。抵抗は創造であり「関係」において美を拓くものである。抵抗の戦士グリッサンは、過去、現在、未来のなかに数えきれない可能性を見ようとする「全-世界」という視点を提出したのだった。そこには超越的な頂点がない。そのように捉えられる世界には、成功も失敗もなく、ただ生成だけがある。そこに美があるのだ...。

「高度必需宣言」を継ぐシャモワゾーの情熱にみちた美学的テクストである。社会にとって美とはなにか。