解釈という余韻

 昨日の朝日夕刊に載った高階秀爾の評論「〈薄霞〉の曖昧さ」を読む。芭蕉の「野ざらし紀行」の一句、

 春なれや名もなき山の薄霞

は、初稿では「朝霞」だったのが「薄霞」に改められた。朝霞の方が季節の情景が引きしまって伝わるのにあえてぼんやりした後者がとられた。そこに読者の解釈の多様性を喚起することを狙う俳諧師としての芭蕉が看てとれる。国立新美術館での「シュルレアリスム展」においても作品は読者にオープンな解釈を促している。そうした論評だった。和歌よりも俳句の自由な広がりが好きな自分にとって、印象に残る記事だった。
 高階氏のいう「受容者の参加をうながす」作品というものが確かにある。それに接する者は刹那的にそのポエジーに打たれ、そのあとに解釈という余韻が広がって行く。そしてそこにひとつの空間が開ける。