中上健次『異族』ーー路地から世界へ

管啓次郎研究室主催、世界文学輪読会で初めて日本語作家を読む。講談社文芸文庫で900頁を越える『異族』は僕にとって中上小説への初アプローチである。この大作を通読した意味はとてつもなく大きかった。未完の遺作という点を差し引いたとしても、たしかにこの作品にはさまざまな難点が指摘されよう。文体の欠如ーー冒頭の緊張感が次第に緩み、最後には劇画か映画のシナリオのように平板なものになっていくーー、登場人物のステレオタイプ化ーー後半になって現れるさまざまな人物は地域や民族的背景を背負っているが、いかも紋切り型の造形であるーー、文化的理解の不十分さーーたとえばアイヌモシリは民族ではなく地域の呼称であるーー。しかしそうした瑕疵(?)にもかかわらず、中上が描く「路地」から「世界」への越境はじつに刺激的だった。そのアプローチは、エドゥアール・グリッサンの小説『全-世界』(Tout-Monde, Gallimard, 1993、未訳)を強烈に想起させる。ガリマール版で500頁を越える小説『全-世界』においてグリッサンは、マルティニク島というカリブ海の小さな島をトポスにそれまで書き連ねた黒人奴隷の子孫たちの軌跡を、世界のさまざまな場所に拡散させようとした。中上も路地をトポスとする紀州サーガから世界への拡張を図った。無論それらの方法と射程は同じものではない。しかし『異族』と『全ー世界』はともに、小さな場所から放射される巨大なエネルギーによって「均一的世界視」(グローバリゼーション)の裏側から世界を異化し重層化しようとする。空間を拡張せんとして登場人物群が操作子化する危うさも含めて、このふたつの野心的な「拡張サーガ」は同様のベクトルを共有している。

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夏羽という名前がよい。読み始めたときは女性かと思った。そして唐突な夏羽の飛び降り自殺はショックであり謎であった。だが再読した『破壊せよ、とアイラ―は言った』の最後に掲載された、作者が18歳のときに書かれた掌編「赤い儀式」に描かれる予備校生の飛び降り自殺、そして中上の精神に大きな影を落とした異父兄の縊死という伝記的事実を通じて、夏羽の自殺が書かれる背景を少し理解したような気がした。

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印象に残ったフレーズの一つ。「…シムは振り返る。誰もいない。黒々とした防風の、あだんの茂みがある。」(789頁)在日韓国人であるシムは、路地から出たタツヤが「左翼」のシナリオライターミドリカワと、「右翼」の大物、槙野原の二人に操られた「俳優」となっていることを苦々しく理解し、アイヌであるウタリや自分もまたそうなのだと思う。それほど独創的な表現とは言えないかもしれないが、この一節にシムの孤独が凝縮されているように感じた。

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その少し前にこんな一節もある。「路地は時間も空間もない。だが韓国人にははっきりと時間も空間もある。」(787頁)グリッサンのマルティニック・サーガが描こうとした、歴史をはく奪された黒人奴隷たちの生活空間である「プランテーション」と、中上の「路地」は似ているように思える。そしてナショナルな空間とそうでない空間の差異をシムは自覚するのだ。夏羽とミス・パクは土地から逃れられなかったがゆえに命を落としたのだろうか…。2024年の夏、中上健次を読んだ暑い夏。