アミド・モカデム氏講演会

 今年最後のコンフェランスは東大駒場での言語態セミナー。南太平洋のフランス領ニューカレドニアからやってきた哲学者・人類学者、アミド・モカデムさんの講演会に出かけた。星埜さんのナビでニューカレドニアへの文学的入門を果たす。1774年ジェームス・クックはその島を「発見」したときに、スコットランドに似ていることからそのラテン語カレドニアを島に与えた。ヨーロッパ人がやってくる前の人々はカナックkanakという。彼らはそのクニをカナキーkanakyと呼ぶ。現在、四国ほどの島の25万人の人口の45%を占めるカナックの民。「ニューカレドニアにおける文学とクニの名前」と題するモカデムさんのレクチャーは、カナキーの立場から、未だ構成されていない文学空間と政治空間との架橋の試みである。
 3つのテクストが選ばれた。1つ目はヨーロッパ系の作家ジャン・マリオッティ(1901-1975)の小説『不確実号に乗って』。2つ目は1980年代の民族覚醒・独立運動のリーダー、ジャン=マリ・チバウ(1936-1989)が1978年にカレドニア連合大会でおこなった記念碑的演説『祖先の息吹』、3つ目はカナキーの女性作家デウェ・ゴロデ(1949-)の小説『漂着物』(2005)。残念ながら時間の都合でゴロデは省略されたが、3つのテクストに共通する「漂着物」epaveというキーワードが分析された。epaveはカナキーというトポスを象徴する。流れ着くものに刻まれるのは、あらかじめ計算された運命ではない。マリオッティが提示したepaveに対して、チバウの演説のなかで「わたしたちの財産」として積極的な意味づけが試みられる。ゴロデのなかではさらに微妙なニュアンスが与えられているようだ。
 政治的にみると、マリオッティの作品の背景には1878年のカナックの反乱がある。チバウは1989年に立場を異にする同胞に暗殺されたが、そのときセゼールが美しいテクストを彼に捧げた。現在ニューカレドニアは1998年フランス、カナック独立派、反独立派の3者のあいだで交わされた「ヌメア合意」のもとにある。それによりフランス市民権とは別のニューカレドニア市民権が認められ、今後数年のうちに、フランス残留か独立かを選択する住民投票が行われる。果たしてカナックの民は独立を選ぶのだろうか? モカデム氏はグルニエカミュ論を引いてマリオッティとカミュを比較されたが、カミュを持ちだす射程は?カナックの人々の政治的スタンスは?との質問に対してモカデム氏は、状況の微妙さを指摘された。
 モカデムさんと娘さんを交えた打ち上げも議論沸騰。自分のフランス語理解力の限界もあったけれど、ゴロデについてカテブ・ヤシンの名前があがったり、グリッサンに対して辛口の言葉があったり、このところ気力も体力も下降の一途をたどっていたが、ちょっと元気がでる集いでした。負けずにがんばろう。