セゼール生誕100年

 6月26日はセゼールの生誕100年である。セゼールといえば一般的には「ネグリチュード」の詩人であるが、白水社の雑誌『ふらんす』6月号に組まれた「エメ・セゼール特集」の3つの論考は、21世紀にセゼールを読む意義を改めて示している。
 中村隆之氏によれば、「共和主義」「ディアスポラ」「第三世界」をいま問うためにセゼールを読むべきである。共和主義という理念が示す同化主義的傾向によってないがしろにされるアイデンティティの問題をセゼールは提起している。ブラック・ディアスポラの文脈においてセゼールは読み返される。また「第三世界」をあらためて議論するときに射程にはいるセゼールの有効性。たとえばニュー・カレドニア独立運動のなかで1989年暗殺されたカナク(先住民)の指導者ジャン=マリ・チバウに対して追悼文をささげたセゼール。
 尾崎文太氏はジュディス・バトラーを引きつつ、21世紀のグローバル社会のなかにいまなお横たわる「植民地主義」を見据えるためにセゼールへと向かう。「植民地主義」とは植民地化された人々を疎外する。そうした状況は現代さまざまな場所にみられるだろう。中国を、朝鮮半島を、沖縄を、福島を覆う搾取と剥奪に眼を向け、人々を「人間」として解放し「世界」にふたたび参入させるために必要なのは、まさに詩人セゼールの叫びである。
 そして西川長夫氏の分析には鋭い切先を突きつけられる。セゼールの苦悩と孤独。それは「独立」は開発独裁を招き、「同化」は住民の退廃を招くであろうという植民地の解決不可能な難問に最後まで誠実に向き合っていたからだ。エメ・セゼールが何故クレオール性に距離を置き、黒人であること(ネグリチュード)に最後までこだわっていたのか。その一点を失えば、西欧近代の価値観のただなかに漂流することになりかねないからなのだ。西川氏のことばは重い。時流のなかで消失することのないアイデンティティの核心を言い当てているからだ。たとえば、ブルースが決して死なないのと同じことだろう。ブルースはひとつの魂の在りかを示しているからだ。もうひとつはっとしたのは、西川氏が『植民地主義論』のなかに指摘された、「国民」nationとはブルジョワ的現象である、という一節である。西川氏の『〈新〉植民地主義論』を、そして誕生日にあわせてフランスで刊行されるというセゼールの校訂版全集を手にとろう。