レーンホフの「宇宙船リング」の告発

コロナ肺炎対応で、3月2日からテレワークが始まった。夜、余裕のできた時間で少しずつワグナーの『ニーベルングの指輪』のLDを15日間かけて久しぶりに全部見た。1989年ミュンヘンでのサヴァリッシュ指揮、レーンホフ演出の舞台である。日記を遡ると2013年2月1日に全曲を視聴したとあったので7年ぶりの全曲視聴である。レーンホフの宇宙船リングはあまり評判がよくないようだが、ぼくは他の映像を見たことがないので比較論はできない。ただ、ブリュンヒルデの自己犠牲による世界秩序の救済、という結末を拒否したレーンホフの演出は、近代主義に対する根本的な警告をオープン・クエスチョンとして提示したものであり、今回もその解釈にインパクトを感じた。いや上演から30年経ったいま、その警告がなんとリアルに感じられることか。

ここ数日間の緊張感は何だろう、ああそうだ、2011年の原発事故のあとと同じ空気だとふと気づいた。20世紀が戦争の世紀だったとすれば、21世紀は、日本列島に限ってみても、2011年の原発事故、昨年の台風や豪雨からこの冬の異常暖冬でついに誰もが見ぬふりができなくなった気候変動、といった事件に顕著なように、どうやら「近代文明」がつけを払わなければならない事態に陥ったことが露わになった時代である。地震は天災である。しかし原発事故と気候変動は人災である。ここのところ訳読しているBruno Latour, War of the Worldsの議論に、レーンホフの『指輪』解釈はなんと共振することだろう(ただラトゥールは未来へのベクトルを提示している)。

去年の12月に授業で高校1年生にグレタ・トゥーンベリの2018年国連気候変動会議でのスピーチを読ませ、感想と自分が一番憂慮する環境問題について述べよ、という自由英作文を書かせたが、そのときの彼らのリアクションがなんと真剣だったことか…。コロナが人災か天災かはわからない。ただわれわれの生存環境はなぜ脅かされ、どうやって、どのようなかたちに回復すべきか、という問いに誰もが直面すべき状況にあることは間違いない。コロナウィルスによって世界経済は停滞し、世界の至るところで人々は同じピンチに陥っている。苦難の渦を架橋しながら世界を再構想しなければならないときが来ているのだろう。