ダンテを読む(1)『神曲』地獄篇

プルースト失われた時を求めて』、セルバンテスドン・キホーテ』に続いて、管啓次郎研究室主催読書会第3弾はダンテ(1265-1321)の『神曲La Divina Commedia。19世紀末フランスから17世紀初頭スペインを経て14世紀前半のイタリアへと時空を遡行する。テキストは角川ソフィア文庫の三浦逸雄訳。いつもながら管先生のテキスト選択はすばらしい。三浦逸雄は三浦朱門の父君。昭和40年代に出版されたこともあるのだろうが、その訳文はやや古風な言葉遣いと若々しい会話調が乖離することない融合をみせている。トスカナ語原文では十一音節の韻文が、柔軟で張りのある現代日本語散文に生まれ変わっている。このテキストならば重厚な古典文学に食らいついていけそうだ。

本日は「地獄篇」Inferno。文庫本を開いた途端に目に飛び込んでくるボッティチェリ『地獄の見取り図』(1490)にまず圧倒される。すごいな、これは。よし行くぞと士気も上がる。本文の随所に素描も散りばめられている。ルネサンスの巨匠画家によるダンテ読解とともに地獄のピクニックに出発だ。地獄はすり鉢状の構造体なのであった。アリジゴクの巣はその形状がゆえにそう呼ばれていたのだと合点がいった。そうだ、いつか吉増剛造さんが話していた羽村の「まいまいず井戸」を見に行こうか(散歩者の日記2011年8月10日)。

ダンテの主人公は、生き身のままに師匠ウェルギリウスとともに冥府へと向かう。洗礼を受けなかった異教徒がひしめく辺獄(リンボ)から、らせん状に下るにつれて、好色者、欺瞞者、裏切り者、と人間が犯した罪は重くなり、地獄の中心には堕天使の魔王ルチフェロが待ち構えている。その道行にはミノタウロスやらクレオパトラやら神話や歴史上の人物があふれている。フィレンツェに介入し、ダンテを亡命に追いやったローマ教皇ボニファキウス8世もダンテによって地獄に落とされた。フィレンツェを追放され、流浪の身で執筆をつづけたダンテ・アリギエーリは、この「地獄篇」においておびただしい人物の名を挙げて彼らを断罪するのだが、その言上げは執拗である。たとえば第九の圏谷(裏切り者の獄)での出来事。主人公は総じて穏やかにウェルギリウスに従って歩を進めるが、ここで名を名乗らぬとある亡霊に出会ったとき、彼はにわかに色を失って逆上する。

「わたしはそいつの首根っこをつかんで、いった、『ともかく名をいうんだ。でないと、これから上には髪の毛が残らないぞ!』」(358頁)。

そして名を名乗らぬ亡霊の髪の毛をむしり取るのである。「地獄篇」には地獄落ちの人間を見定めようとするダンテの執念のようなものが漂っているように思われた。

地獄のすさまじい描写のなかでもっともおどろおどろしかったのが、次の一節。

「そのときはすでに 二つの頭は一つになっていて、目の前にあらわれてきたときには、二つの顔がなくなって、二人の顔が混ざり合って一つの面になっていたのだ。四つの肉片からは二本の腕ができ、足と腰、腹、胸などが、見たこともないような肢体になっていた。もとの姿はどちらもそのときに消えて、その異様なかたちは、人とも蛇ともつかぬものに思われたが、知らぬうちに、ゆっくり立ち去って行った。」(275頁)。