ダンテを読む(2)『神曲』煉獄篇

今日は『神曲』読書会第2回、「煉獄篇」を読む。地獄の核心部から一気に南半球の海に浮かぶ山岳島に突き抜けたウェルギリウスとダンテの主人公は頂を目指して煉獄の門をくぐる。地獄篇は地底探検だったが、煉獄篇は登山である。煉獄は亡者の贖罪の場であると同時に地上楽園として設定される。行脚とともに、ダンテの主人公の額に天使によって付けられた7つの大罪を示す7つのPの文字がひとつずつ消えてゆき、魂の浄化が進行する。ついに霊獣グリフィンにひかれた華車に乗ったベアトリーチェが姿をあらわすと、ウェルギリウスの霊は消えてゆく。最後に到着する場所は一本の樹木。アダムがその果実を口にしてしまった、あの知恵の木である。圧巻は、その木につながれた華車が悪魔の攻撃を受けてグロテスクに変形する場面。「こうして 神聖な造りものの形が変わると、あちらこちらから頭が出てきた。轅に三つ、四隅からは一つずつという風だ。三つの頭には牡牛のように角が生えていたが、四隅の首のひたいには角が一本だけ生えていて、こんな異形なものを わたしは見たことがなかった。…」(382頁)地獄篇もそうだったが、こうした目くるめくメタモルフォーゼは、師匠ウェルギリウス譲りのものだろう。『変身物語』が読みたくなった。

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ところで、この「煉獄篇」においても、キリスト教徒や教会は主人公の痛烈な批判を免れることはない。「ああ、思いあがったキリストの信者よ、あわれな奴ら。お前らの心は曇っていて、うしろ向きに歩いて それを正道だと思っている。お前らにはわかるまいが、わたしたちが被いもなくて、審判の前にとんでいく天使のような蝶になるために生まれてきた虫けらだということが。」(119-120頁)そもそも「地獄」と「天国」のあいだに設定される、この中間領域は何なのか。贖罪というプロセスによって人間は天国への切符を手にできるのか。こうした彼岸の三層構造には倫理的ヒエラルキー、すなわち人間の犯す罪の一覧表が表示されるわけだが、ダンテは「煉獄篇」において、「中世教会で規定した七罪から、浄罪の手順を発見した」(400頁)と訳者である三浦逸雄は指摘する。さらに訳者解説によれば、アウグスティヌスが教理化したこの中間領域は、安易な免罪符発行に結び付き、プロテスタントは来世の教義として煉獄を認めないのである(408頁)。しかし、このあたりの問題について自分の頭で考えるためには、まずアウグスティヌスとトマス・アクイナスを読まないと話にならないだろう。今はともかく、文学者ダンテとともに彼岸の神話の旅を続けよう。「わたしは若葉でよみがえった あざやかな樹木のようになって、いともきよらかな川波から帰ってきて、星々をさして登ろうと 気がまえしていたのである。」(395頁)いよいよ宇宙旅行に出発である。