トルコ近現代詩を読む 詩人を語る

19時より、下北沢アレイホールにてトルコ近現代詩の朗読イベントに参加。会を主催されたイナン・オネルさんが東大言語情報の同期であったことを直前に思い出した。ラテナイズされたトルコ語により産声を上げた近代以降のトルコの詩人たちの系譜、精神、感情の在処を鮮やかな日本語で紹介してきたイナンさんの業績を知り、トルコ語と日本語による朗読が交錯するポエジー空間に身を浸し、今宵、トルコ文学の敷居を跨いだ。そもそもなぜトルコに接近したかといえば、勤め先の高校が今年トルコの高校と姉妹校となったことがきっかけである。先方の高校生を日本に呼ぶ計画を立てていたが、残念ながら諸般の事情で今年度の来日は流れてしまった。なんとか来年度は実現したい。

未知の土地に住む人々の息遣いに触れるために最も有効な手立てとは、その土地の文学を知ることであろう。その真実を今日の詩祭で改めて実感した。詩人という魔術的な「言葉使い」への接近によって、トルコという自分にとって遠い土地が俄かに近しいものになってゆく。そこで翻訳という回路がどんなに重要かは言うまでもない。イナン訳のナーズム・ヒクメットとオヌル・ジャイマスの2人の作品にとりわけ心打たれたが、ナーズムの「希望」を朗読された新井高子さんによれば、彼は日本文学を学ぶなかで高村光太郎中原中也の言葉に自らの情動を投影できたという。すごいと思う。

会の最後には今城尚彦さんによるサズ(バーラマ)の弾き語りが入った。3コースの複弦を持つ、ブズーキと同系の撥弦楽器を弾きながら今城さんは見事なトルコ語で歌われた。サズは吟遊詩人(アーシク)の楽器。全ての詩人は吟遊詩人である。

「詩は坂を登る方法の一つであり、辿り着いた時には全裸である、知っておかなければならない。」(スィナン・オネル)

マリーズ・コンデ『料理と人生』(大辻都訳、左右社)

ものすごく面白かった。まるでマリーズが日本語で語っているかのような錯覚を覚える素晴らしい翻訳。文学と料理という二つの領域を追求したマリーズ・コンデ。グアドループで生まれ、アフリカ人と結婚してアフリカで暮らし、そしてその後イギリス人の伴侶と歩んだマリーズの人生は文字通り越境の旅。彼女の文学に描かれるのはアフリカン・ディアスポラの人々の軌跡。本書では、マリーズが訪問したさまざまな地域での文学経験と料理体験が語られるのだが、刺激的なのは彼女の越境は創作に限られたわけではないということだ。「海外から帰るとわたしは友人たちを招き、得たばかりのレシピで料理をふるまうことにしていた。イスラエルからの帰国後は、現地で出会った複数起源の料理を作った」(p.153)「文学と政治は完全に切り離せない」(同)と語るマリーズだが、文学と料理もまた完全には切り離せない。彼女の料理の信条は、すでに世界各地にあるレシピはアレンジ可能だということ。「ある料理の起源がどこにあるのであれ、その料理はいつだって我がものにしてよいのだ」(p.73)。そこには即興的な趣があるといってもよいだろう。一人の作家の生涯が描かれた本作は、同時に、「食」を通じてクレオール文学の意味を理解するための必読の一冊であり、本書からクレオールディアスポラ、アフリカ系文学へと導かれる読者が一人でも増えることを願いたい。21世紀の現代において、「世界」という言葉の動的な意味を考える時に最も必要な視点を与えてくれる一冊である。

トルストイ『戦争と平和』6

戦争と平和』第6巻(望月哲男訳)を読了。ついにトルストイ・セッションが終了した。フランス軍の敗走の後を物語は追うことをしない。登場人物たちのエピソード群はピエールがペテルブルグに出発するところで終了する。戦争俯瞰と個人への接近という二極を振幅するディスクールに対応すべく、異様に長い2編のエピローグが置かれている。最初のエピローグは、夫婦となったナターシャとピエールが幼い息子と過ごす団欒とアンドレイ公爵の息子ニコーレンカが亡き父や叔父ピエールに思いを馳せながら自分の未来を切り開こうと決意する場面で唐突に終わる。唐突? いや、トルストイはある時空を切り取って語っただけなのだ。そこに「物語の結末」はない。人々の生の姿がそのまま記述されているのだ。第2のエピローグでは、小説の進行とともに次第に前景化してきたトルストイ戦争論が展開される。延々と続く哲学的なこのエピローグは読書会ではあまり人気がなかった。小説からの逸脱? だがたとえばメルヴィルの『白鯨』冒頭は延々と続く鯨学ではなかったか。巻末の訳者解説にもあるように、一時期、戦争論の部分が削除された版も出版されたというが、僕にはこの部分がとても興味深かった。戦争叙述を特定の個人の行動に還元する歴史観を批判するトルストイは、歴史における必然の法則と自由の問題を論じる。着地点はいまひとつ明瞭ではないように思われるが、トルストイの議論を読むうちに、歴史とは何かという問いが立つ。特定の個人を戦争のベクトルを左右する存在として特権化することを拒むトルストイであるが、ロシアの大将クトゥーゾフには肩入れしているような印象もある。だが、クトゥーゾフが「勝利」したのは、彼が無策だったからである。クトゥーゾフの存在が特権化されているのではなく、まったくその逆に、その無力さにもかかわらず勝利したという事実にトルストイは焦点をあてたかったのはないだろうか。個人が戦争を左右することはない、というテーゼの具体例としてクトゥーゾフは描かれているように思われる。物語と哲学的省察はひとつのディスクールを形成しているのだ。

 

シリル・ルティ『ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家』(2022)

夕方、シネスイッチ銀座でGODARD seul le cinémaを観る。『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』などヌーベル・バーグ時代の作品しか知らない僕のような人間にはゴダールの絶好の入門だった。面白かった。ただデジタルにシフトした最晩年の作品も紹介してほしかった。映画制作における「編集」という作業の重要性を垣間見た気がする。マオイズムに傾倒した時期の作品や博覧強記の『ゴダールの映画史』を見てみようか。それにしても、ゴダールの人生ってどことなくマイルス・デイビスのそれに似ている気がした。

トルストイ『戦争と平和』5

フランスから帰る飛行機の中に『戦争と平和』第5巻を置き忘れた。旅のあいだに読了し、下線を引いたりメモを書き込んだりしていたので痛恨であった。仕方なくもう1冊買い読書会に臨んだ。

ついにナポレオン軍がモスクワに入る。戦争描写は激しくなり、ヴェレンチャーギンのリンチやピエールが目の当たりにする銃殺刑の執行など、凄惨な場面に読者は遭遇する。リンチを命令したラストプチンの自己正当化のつぶやきは、戦争犯罪者に共通する心理のメカニズムであると言える。

本巻では、トルストイ戦争論が前景化する。冒頭の第3部第3編第1章や第4部第2編第1章にそれが開陳される。トルストイは、歴史家のあいだに見られる、指揮官や武将といった上層部の個人的行動が戦争の動向を左右するという意見に真っ向から反対する。決して俯瞰できないさまざまな状況が絡み合い、人間の集団的な力動性によって戦況は推移するというのが彼の意見である。「歴史的英雄の意思は大衆の行動を指導しえないばかりか、むしろ自分の方が絶えず大衆の行動に引きずられているのである。」(424頁~425頁)しかしマクロな視野から戦争を俯瞰する態度は一種の不可知論へと向かってしまわないか。訳者の望月氏は「トルストイ流の大きな論の立て方は、事象の細かな背景を説明するよりもむしろ隠蔽してしまうことにつながりやすく、それゆえのあいまいさや危険をはらんでいます」と巻末で述べる(558頁)。読書会でも、指導者の戦争責任を曖昧にしかねないトルストイの意見に疑問の声が上がった。そう思う。ただ、戦争指導者の個人的な力量と判断力がつねに戦争行動を牽引する決定的要因であるとはいえない、といったトルストイの説には、うなづけるところも多い気はする。ナポレオンの退却が、ロシア側の指揮官の周到な戦略ではなく、コサック兵たちの襲撃に偶然遭遇した結果はじまったという記述(529頁)は印象深い。

アンドレイ公爵の死の描写は不思議である。戦傷を乗り越えたのに一種の神経衰弱のような状況に陥って生きる気力を喪失して死んでしまうのだが、その件はいささか観念的に過ぎるように感じられる。

フランス側の捕虜になったピエールが出会うプラトン・カラターエフがとても魅力的な人物だ。「それはあらゆるロシア的なもの、善良なもの、まろやかなものを体現した存在だった。最初の日の翌朝早朝、改めてこの隣人を見た時も、なんとなくまろやかだ、つまり丸っこいという第一印象はいささかも変わらなかった」(386頁)「まろやか、丸っこい」という訳が面白い。捕虜のプラトンは晩に寝床で、こんなお祈りをする。「神さま、石ころのように寝かせ、丸パンのように起こしてください」(387頁)。第5巻で一番気に入った一節。

 

 

トルストイ『戦争と平和』4

望月哲男訳『戦争と平和』4は第3部の第1編と第2編を収める。1812年、クトゥーゾフ率いるロシアとナポレオン率いるフランスとのボロジノ会戦の様子が描かれる。戦争の物語のなかで語りの主体となるのは軍人=貴族であり、民衆ではない。したがって『戦争と平和』における戦争は、軍人=貴族=男性の視点からもっぱら記述される一枚岩のディスクールであるとといっていい。だが本巻ではそこに「外部」から闖入する人物が二人いる。一人は「語り手」(トルストイ)であり、もう一人がピエールである。「語り手」は本巻あたりから戦争に批判的に介入し始めるーートルストイの、歴史の表舞台に現れる人物にフォーカスする戦争論批判については第5巻のところで触れたい。ピエールはこの戦役で任務のある軍人ではないにもかかわらず戦場の様子を伺いにやってくる。彼は外部者として戦争のディスクールに闖入すると言ってもいい。職業軍人によるゲームとしての「古典的戦争」から民衆を巻き込む総力戦という「近代的戦争」への端境期を描いた本作において、百姓からなる「義勇軍」(p.412)へまなざしを向けるピエール。また担架で運ばれる負傷兵に眼差しを向ける(p.492)ピエールーー負傷兵の傍らにいる上官は負傷兵を見ようとしない。また、『戦争と平和』における平和が描かれるのは貴族の生活やサロンであるが、ピエールはサロンで華やかに脚光を浴びる存在ではなない。さらにピエールはフリーメイソンに入会するのであり、ロシア正教会ともカトリックとも距離を置く。このようにピエールは、『戦争と平和』のドミナントな操作子(登場人物)の場所に闖入し、そこに緊張をもたらす異端者であるといえまいか。

さて、軍人=貴族=男性が主体の物語のなかで、民衆がにわかに自己主張をする場面がある。それは老ボルコンスキーが死去した後、自己を犠牲にして父を支えてきたマリアが、フランス軍が迫り来る中で、父を継いで領主となる覚悟を決めて決断を下し、領地の農民をより安全な他の場所に移住させようと提案するときに農民が拒否する場面である。新しい土地に連れていかれて「どうせまた農奴にさせられるのだろう」と訝る農民の語りがあらわれる(330頁付近)。が、マリアには農民の拒絶の理由がつかめない。にわか領主の「人道的」エゴが農民の感情と乖離する様子がそこに描かれる。だが農民の拒絶の理由は、マリアのみならず、読者の僕にもいまひとつつかめないところがある。なぜ農民たちが土地を捨てることを渋ったのだろう。とにかくここでは領主に反撃する民衆の意思が浮上している。

本巻に至って、戦争で命を落とす兵士の描写が前景化してきた。「何万もの人間がいろんな姿勢の、いろんな軍服を着た死体となって畑や草地に横たわっていた。それは地主のダヴィドフ一族と国有地農民の所有地で、その畑や草地では何百年もの間ボロジノ、ゴールキ、シェワルジノ、セミョーノフスコエの村々の百姓たちが作物を取り入れ、同時に家畜を放牧してきたのだった。[...]まるで雨はこう語り掛けているかのようだったーー「もうたくさんだ、たくさんだよ、人間たち。よしなさい...。正気に戻るんだ。君たちはいったい何をしているんだ?」(553-554頁)。200年以上たっても人間は同じことを繰り返しているわけだ。地球温暖化に対して総力をあげて対処しなければならない状況において、そんなことをしている暇はないはずなのに。「雨」の忠告に耳を傾けよ。

 

 

 

ソフトボールと積丹半島とサリンジャー

Uは高校でもソフトボールを続けている。所属するチームが石狩市で開催されるインターハイに出場することとなり、応援するために北海道に飛んだ。8月6日、石狩湾近くのグラウンドで行われた1回戦で静岡の強豪校と対戦したが、健闘むなしく敗退。練習を積んで少しずつ強くなっていってほしいものだ。Uはチームと一足先に帰京したが、せっかく北海道まで来たので、夫婦で観光して帰ることにした。

「民族共生象徴空間」として整備された白老コタンに行こうとしたら、ちょうど月曜日で休館日であることに気づいた。さてどこへ行こうか迷った末、足を踏み入れたことのない積丹半島をドライブすることにした。20代の頃ニセコアンヌプリから雷電山まで残雪期に山スキーで歩いたことがあったが、そこから北に見える積丹半島の山々の圧倒的量感に魅了されたのを覚えている。小樽で高速を降り、国道を海沿いに西進するにつれて点々と現れる集落の数は次第に減り、爆発する山の緑が海に雪崩れ込む秘境的風景が広がる。どこかアイルランドを彷彿とさせる。いつか余市岳や積丹岳に登ってみたい。積丹岬の駐車場に車を止め、断崖絶壁に切られた遊歩道を降りると、そこは奇岩に囲まれた小さな入江、島武意海岸。岩峰の荒々しさとエメラルドブルーの静かな水面のコントラストがすばらしい。車まで戻って15分ほどさらに西進して、夕方、神威岬に到着。ここは積丹半島の突端である。岬の先端まで20分ほど細い岩稜に作られた遊歩道を歩くのだが、時折空中に渡された金属製のブリッジを渡るのがスリル満点。岬の突端は一気に海に落ち込み、その先に、海に潜ろうとするオットセイがその前にもう一度ひょいと海面に姿を見せたような神威岩が波に洗われている。陸地が次第に心細くなって海と邂逅する岬という場所のポエジー

旅のあいだにLouis Sachar, There is A Boy in the Girls' Bathroomを読む。勤め先のティーンエイジャーのための夏課題図書だが、主人公の問題児ブラッドリーくんはじめ、その他の小学生の言動がめちゃめちゃ面白くて何度も噴き出してしまう。ペーパーバックを手に取るのは初めての人が大半だろうが、みんながんばって読了してもらいたいものだ。

さて、そこで引用されているサリンジャーRaise High the Roof Beam, Carpenters and Seymour: An Introductionが気になって邦訳(『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモアー序章ー』、野崎・井上訳、新潮文庫)で読んでみると、なるほど、エキセントリックでナイーブで天才的にクリエイティヴなブラッドリーくんの人物造形には、サリンジャーシーモアの影響があるかなと感じた。

『大工よ…』はサリンジャーによるグラース・サーガの一冊。シーモアは詩人であり、自殺してしまったシーモアの人生と作品を語る(語ろうとする)弟バディは本作の語り手であるが、彼は小説家であり批評家である。この特異な作品は小説の体裁を取りつつ詩と散文(小説、批評)を橋渡しする詩学(詩論)としてのパースペクティヴを備えている。そのなかで、シーモアがバディの作品をこんな風に批評する一節がある。「おまえは作家なのか、それとも単にすばらしく気のきいた物語の作者なのか? ぼくはおまえからすばらしく良い小説をもらいたいとは思わない。ぼくはおまえの戦利品が欲しいのだ」(168頁)。クー、かっこいい。