一昨日の夜、神奈川県民ホール・ギャラリーで多和田葉子高瀬アキDuoを聴く。圧倒的である。2人はもう数年間コンビを組んで数えきるないほどのパフォーマンスをこなしているとあって、息もぴったり。ジャズを発想の中心として、しかしジャズにとわられず、「即興」という詩的営みとその力動性をひろくさまざまな文化現象のなかに探ってみたいと思っている自分にとって興味深々のライブであったが、来てよかった。
 音声化された言語を契機とする芸術的行為はいろいろある。ふつうの「朗読」。それは書かれたテクストを音声的に再現する行為であり、そこに関与するのは語られる言語に特有の発声法とイントネーションである。それに劇動作が加わると「演劇」になる。このふたつの領域では、ことばはかなりことばのままでいられる。ところが「歌曲」、シューベルトのリートとかになると、詩は音楽的発声によって提示され、音楽のメロディやリズムやイントネーションに乗る。言葉は強力に音楽的様式の意匠を施されるわけだ。ところで、ここでの多和田と高瀬のコラボレーションは、言葉と音楽が対等に応酬しあう。言葉はなるべく言葉の世界にとどまろうとし、音楽も音楽のままでいようとしながら、両者は共同作業領域を開拓する。たとえばラップは音楽に乗った言葉が音楽に屈しない自己主張を見せるかなり自由な芸だが、いかんせんそこで言葉はストイックに定速的リズムに乗ることを余儀なくされる。ここでの言葉と音楽のコラボレーションはもっともっと自由だ。多和田のテクストは大体言葉のshignificationを保ち、たとえばその意味内容によって聴衆を笑わせることができる。しかし往々にしてテクストの単語の音節は解体し、ピアノから発せられる楽音と戯れながら言語と音楽とのはざまの領域をスリリングに浮上させる。そこに展開される記号の新しいsignifianceのなんと鮮烈なことか。
 ここにみられる「即興性」とは何だろうか? まず、言語の側からみれば、「作品」の「朗読」が、書かれた言語を正確に反復し既成のsignificationを忠実に伝えるいわば「演奏」システムにおける現働化であることに対して、多和田のテクスト・リーディングは、言語テクストがあらかじめ高瀬のピアノとの共同領域のなかに変幻自在に開かれることを目指している。彼女はそのテクストを独立させて「朗読」することもできるだろう。しかし、音楽とともに新しい詩の発生の現場へとテクストをもたらすこともできるのだ。こうしたテクストの開き方が、「即興的」なのである。次に音楽の側からみれば、その音楽が予め綿密に書かれ、詩を自らのシステムに取り込むものではないということだ(ただし、プログラム中ほどに、多和田が「アヤメ...」と歌う(!)すばらしい「歌曲」が挿入されているが)。高瀬のピアノは言葉に寄り添い、反応し、自らを主張する。それに加えて、おそらくパフォーマンスごとに2人の掛け合いの細部がそのつど改変されるといった即興性もみられるのだろう(これは1回聴いただけではわからないが)。
 コンサート会場で偶然管さんと会う。終了後何人かで中華街に繰り出し、台湾料理「青葉」へ。ここはとても美味しい。一緒に居られた編集者の方によると、いまだこのDuoのCDが出ていないのだそうだ。是非CDあるいは映像作品を発表して欲しいものだ。