J.M.クッツェーの朗読会に出かけた。これを機会に2度目のブッカー賞を取った『恥辱』を読み終え、今は『少年時代』という自伝的作品にとりかかっている。緻密なストーリー・テリング。しばらくの間マイ・ブームになるだろう。今日は最新作Diary of a Bad Year(2007)からの朗読。ふーん、アフリカーナーの英語ってこういう感じなのか...などと無学な素人的関心を膨らませながら淡々とした朗読に耳を傾ける。そのあとの質疑応答の受け答えに、慎重で用意周到な小説の語り口がにじみ出ているような気がして面白い。クッツェ氏は今はオーストラリアに住んでいるのだそうだ。オーストラリアは彼にとってどんな場所なのだろうか? アパルトヘイトの傷跡を引きずる南アとは対照的な牧歌的世界なのだろうか?
 ところで駒場東大前の駅を境に北と南は僕にとってふたつの異なった世界である。職場がある駅の南側は日常生活空間。しかし駅のガードをくぐるとそこはちょっと前まで所属していたアカデミックな別世界。京王井の頭線は、そのふたつの世界を隔てる境界線なのだ。そんなこと今まで考えたこともなかったのだが、今日仕事を終えて「北」に踏み込んだ途端にそう思った。
  朗読会が終わると冷蔵庫のような夜が下りてきていた。渋谷の焼き鳥屋で熱燗をひっかけ、止まり木を我にも分けよ夕雀、と書かれた黄ばんだ紙切れをぼんやり眺める。その店は井の頭線のガード下わずかに「北側」に位置していた。