声の氾濫

 作家は声を得たのだった。以前カントリー・ブルース研究をしていたときに読んだ本のどこかで、とあるブルース歌手がこんなことを言っていたのを思い出した。。誰かが歌った歌詞を歌うとするだろ。クリシェであっても、それを自分で歌うとき、それは自分のものになるのさ。ちょっとそれに自分流の節回しをつけてね。作家が自分で書き下ろしたテクストを読む。沈黙するエクリチュールという永遠の公共的文字空間から、時間に束縛される声という現象界に引き出されるとき、作家はテクストを所有(あるいは再所有)するのだろう。この朗読パフォーマンスのために書き下ろされたテクストが、司会の中村和恵が指摘するように、はからずも(?)一人称であったということは興味深い。ブルース・ランガージュ(なんて言い回しはあるのか?)は、かならず一人称の語りとなる。
 作家と音楽家の共演。意味の層との二重分節を担う言語音/制度としての意味から自由に広がる楽器の音ないし電子音ないし加工された自然界の音。
 管啓次郎と共演した内田輝はクラヴィコードとソプラノ・サックス。指で弦をベンドさせることができる唯一の鍵盤楽器から発する繊細なニュアンス。沈黙から音が生まれる瞬間をとらえるソプラノ・サックス。キース・ジャレットの音楽と一脈通じる即興演奏は、アリゾナの砂漠と現在オランダで再野生化の舞台として人々が気づきはじめている湿地帯を語るエッセイに、ピュアで鮮やかな陰影を与えた。
 温又柔+小島ケイタニーラブ+伊藤豊。朗読が音楽のリズムとシンクロするかしないかすれすれのスリル。台湾籍で日本語で創作する作家のボーダーへの問題意識がやわらかな意匠のもとに鋭く提起される。伊藤豊の「ラジオ」が効果的。エレキ・スティールパン(正確にはなんと呼ぶのか?)をもっと聴きたかった。
 岡田修の津軽三味線に乗せた木村友祐の朗読は今晩のパフォーマンスのまぎれもない頂点を形成した。畳みかける津軽三味線は切迫した物語の朗読と一体となって疾走する。すごかった。『イサの氾濫』を読まねばならない。
 朝鮮半島と日本列島を往還しつつ「民族」という主体の軛から遠心的に舵を取る姜信子は、渡辺八太夫の三味線と唄いを伴って、継母と水をモチーフに、瞽女や御嶽といったトポスを探索する神話的なテクストのパフォーマンスを敢行した。
 最後の中村和恵の猫パフォーマンスもすごかった。声の氾濫はまぎれもなく反乱の狼煙であった。ソフィストケートされたキナ臭い夜。