キム・ギドクのディープな午後

 WC研、今日は韓国の金基徳を2本。『サマリア』(2004)と『受け取り人不明』(2001)。ベルリン映画祭銀熊賞(監督賞)を取った1本目はまぎれもない傑作である。ヨーロッパ旅行の資金稼ぎに売春する女子高生チェヨンとヨジン。チェヨンが性行為をし、ヨジンが稼いだ金の管理、という役回りだったが、チェヨンが死んだあと残されたヨジンは嫌悪に苦しむ。そして彼女の取った行為とは、死んだ友人が関係をもった男性全員と自分も関係をもち、ヨジンが稼いだ金を返す、というものだった。しかし、ヨジンの父親は娘の売春行為に気づいてしまう(娘の意図には気づいていない)。彼は妻を失くし男手ひとつで愛娘を育ててきた刑事であると同時に熱心なクリスチャンである。苦悩する父は娘を問いただすことはない。娘を尾行し、娘と関係をもった男性につめより、殴り、自殺に追い込み、ついには一人の男性を自らの手で殺害してしまう。映画の最後で父は娘とともに妻の墓参りに行く。そこで、娘に対する何気ない一言「辛いことがあったら忘れればいいさ」という一言でおそらくヨジンは父が知っていることを察知したのだろう、山中の民家に泊まった晩に部屋を抜け出して号泣する。翌日、父は仲間の刑事に自首して、ヨジンを残して去る。
 ヨジンと父の行為にはそれぞれ、他人の罪を許し自ら贖うまぎれもないカトリシズムが刻印されている。しかし、父親の行為には一種の近親相姦的な危うさと、モラルが抑えがたい狂気へとエスカレートしていく「過剰さ」が噴出している。その両者のせめぎ合いこそがこの悲劇のスリリングな本質である。最後に画面がモノクロームとなり、ヨジンが父に殺される夢を見たことが提示されたあと、現実には娘を残して警察の車に乗って去っていく父の姿でエンディングとなる構成には、『受け取り人不明』から監督がどれだけの成熟を見せたかがまざまざと示されているように思われた。『受取人不明』のドラマツルギーであれば、このモノクロームの場面がエンディングとなっていたであろう。父に教わったばかりのよろよろした運転で、父の名を呼びながら父を乗せた警察のジープを追いかけるヨジンの車。それを引き離して去っていくジープ。その2台の車は、もはや自動車には見えない。
  『受取人不明』は朝鮮戦争後の米軍キャンプと韓国人の関係を描いた暴力に満ちた救いのない悲劇と真実の愛の物語である。黒人米兵と韓国人女性とのあいだに生れた私生児の青年と、麻薬中毒の白人米兵の恋人となる片目の不自由な韓国人の少女が核。しかしとにかく壮絶な119分だった。これでもか、これでもか、という感じである。青年がバイク事故で畠の泥に頭を突っ込んで死んでしまったとき、僕は頭を抱えてしまった...。