ナラトロジーの冒険

 今日のWC研、ダニエラ加藤さんのガイドで、デヴィッド・マッケンジーの『猟人日記Young Adam』(2002)とデヴィッド・クローネンバーグの『スパイダーSpider』(2002)。
 1本目はスコットランド出身のマッケンジーが英国のビート作家アレクサンダー・トロッキーの最初の小説Transpotting(1954)の映画化。1950年代初頭のスコットランドが舞台。主人公のジョーは作家となることをあきらめ、グラスゴーとエディンバーグを結ぶ運河の石炭輸送船の住み込み船員となる。彼は複数の女性と性的関係を持ち、昔のガールフレンドを溺死させた(あるいは事故?)過去を持つ。プロットの進行は語りの現在である船員としての生活に、断片的に回想される「過去の事件」が挿入される重層構造。スコットランドの曇天の運河と自然風景が圧倒的に美しい。
 2本目は、カナダの代表的映画監督の一人クローネンバーグによる作品。舞台はロンドンのイースト・ウッド。スパイダーというニックネームをもつデニス少年は成人して精神疾患をわずらっている。病院から故郷の社会復帰施設に入るが、そこで過去の記憶が蘇り、必死に過去を回想する。プロットの進行は大人のデニスが故郷の施設において回想をおこなう語りの現在に、過去の物語が挿入されていくが、そのナラトロジーは尋常なものではなく、デニスの錯乱した統合失調症的回想の症例である。回想物語は子供の頃のデニスが父による母の殺害というトラウマを負ういきさつであるがごときに進行するがその回想の最後に実は母の殺害はデニスによってなされたものとして提示される。登場人物は混濁する。しかもデニスは想起をメモ帳に必死に書きとめるが、そのメモ帳の文字は解読不能なものである。未解決のエディプス・コンプレックスとして解読されるデニスの回想だが、デニスによる母を殺害した父への復習計画の物語が、実は犯人が自分であるという錯乱した幻想を結末に配置することで、症例的ディスクールを悲劇として読める射程に整理するところにクローネンバーグの戦略がある。スパイダーというシーニュは、少年が母から聞いた蜘蛛の物語=母の死の予言、割れたガラスの破片を合わせたところに成立する蜘蛛の巣模様=物語の完成態といった意味をもつ。非常に精緻な構造をもつ力作だと思うが、興行的には失敗したのだそうだ。
  ふたつの映画に共通するのは、不確かな語りというナラトロジーの特徴である。1本目は小説が書けない男(トロッキー自身の晩年と重なる)がモチーフとなり、事件の回想は彼の視点からなされているため、語りの現在の最後に置かれる「裁判」のディスコースと対比されて一層その回想の「真実さ」が疑わしい。2本目も上に述べたとおり、回想自体がファンタスムである。語ろうとして語りきれないナラトロジーは、物語行為という力動性自体の迫力を見る者に気づかせるのだ。