アイヌモシリの幻影3

 それにしてもアイヌの歌い語りのジャンルで興味深いのが「ヤイサマ」という即興歌である。ユーカラやウェペケレが固定した主題をもつ物語を語り演じる以上、演じ手による差異はあるとはいえ、コアとなる物語は設定される。いくつものパフォーマンスを通じて、聞き手は必然的にそのコアの物語に求心的にアクセスすることになる。それに対してヤイサマは、歌い手の生活世界の出来事を扱い、歌い手の心情をその場で自由に述べる抒情歌である。それは既知の主題へ再接近する行為と正反対に、新たな物語を遠心的に紡ぎ出す行為であるといえる。つまりコアの物語の演奏ではなく、即興的創作である。さらに僕が聴いた平取アイヌのヤイサマ(『アイヌ・北方民族の芸能』)にはおどろいた。伊代松という男とその妻の物語なのだが、何とアイヌ語パロールの一部に日本語が挿入されるのだ。その異化作用は強烈である。しかしよく考えてみれば、それもまた即興行為の本質にかかわる問題であろう。即興とは、即興主体が利用できる素材を自由に駆使するブリコラージュの作業であろうからだ。アイヌのヤイサマに侵入した日本語の生み出すスリルは、そのブリコラージュが醸し出す強烈な力であるように僕には感じられた。
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 アイヌ口承文芸ユーカラやウェペケレに共通する特徴として、それらが常に1人称の語りだと言う点がある。神と人が交錯する物語でも、語り手は神の語りも「私」、人の語りも「私」で語る。つまり「私」は複数の位相をもち物語行為のなかでその位相はシフトする。山本多助『カムイ・ユーカラ』の解説で、千本英史氏はその語りの特徴を「神も人も1人称で語る。人である語り手は神と同一化している。両者は濃密に交流し、その交流のひとつの場として昔話を語るという行為もあった」と述べている。物語行為を通じてアイヌの主体形成を支えるこうしたナラトロジー機構を決して見逃すべきではないだろう。