管啓次郎『ハワイ、蘭嶼』

今日は仕事で一日東京文化会館に缶詰。休み時間に管啓次郎の新刊『ハワイ、蘭嶼』を読了。まず装丁がいい。帯の樹木を見上げる写真がアロハシャツの柄ように見えた。
ハワイと台湾南端の小島を訪れた旅の記録。すごく面白かった。いつものことながら文章と一緒に旅に出た気分。鮮やかな写真も楽しい。この本は管さんの数あるエッセイのなかでとりわけ読みやすく刺激的だ。かつてハワイ大学ピジンクレオール学会に誘われてはじめてホノルルを訪れたときのことを思い出した。(ああ、かわいそうなポイドック。そしてタロパンの味。)
三つのディスクール。ひとつは旅行者が滞在した島の土地の記録と旅人の反応。見知らぬ土地を歩き味わおうとする強烈だが気負いのない意欲が生み出すさわやかな文章に読者はあっという間に引き込まれるだろう。二つ目は、旅で訪れる土地にどのようにアクセスし、その土地をどのように想起すべきなのかという方法論。ひとつのポエーシス(詩学)の試み。グリッサン的な群島世界論が底流として響いている。(中村隆之のブログOMEROShttp://mangrove-manglier.blogspot.jp/参照。)島という一見閉じられた場所がいかに他の場所と響きあっているかについて敏感になること。決して大げさではなく、21世紀にあって、どんな場所に生きるのであっても、人が自覚的になるべき世界発見への姿勢ともいえるだろう。本書はもとより、管さんの旅=著述というアクションは、ひとつの土地を多様性という視点から開き、さらにさまざまな土地と文化をつなぐ環境や自然相へと眼差しを向ける詩学の実践である。三つ目は、旅の哲学。噛みしめたいパッセージにいくつも出会う。「ぼくは旅をよく見失う。何かに見とれてしまうのだ。自分から求めてそうするわけではないが、ふと気がつくとすべての動きを止め、何かを考えることもやめ、どこにいるのかも忘れ、何をめざしているのかもわからず、その場で起きているたぶんその場としてはごくあたりまえのことに気をとられ、心を奪われ、それを見ている。[...]そしてそんな瞬間によって、のちには旅を記憶してゆくことになる。」「旅は脱線。見えないレールに不意に移ったきみは、あてどないさまよいのうちに見たことのない風景と聞いたことのない言葉を次々に体験しながら、目をみはり耳をすまし胸をどきどきさせて自分の変化を生きる。[...]旅というむだな日々は少なくとも自分を洗い自分をつくる諸要素をシャッフルすることに役立ち、その上できみに小さな方向転換を強いるのだ。」
多層のディスクールよって織りなされた旅の手帖には、ぼくらがそこに追記すべき自由記述のスペースがふんだんに与えられている。さて、これからは、すべての移動を旅と考えて、本書が差しだすそのスペースに自分の足跡を書き込んでいくことにしよう。