フォースター『小説の諸相』

昨年読了したE.M.Forster, Aspects of the Novel(1927)のノートをようやく取り終えた。テクストはペリカン・ブック。5年ほど前に仕事場で大量に廃棄されたペリカン・ブックを何冊かもらったのだが、そのなかにフォースター『小説の諸相』が混じっていた。昭和48年に刊行されたその本のページは、誰かに繰られた形跡もないまますっかり黄ばんでいた。
フォースターは、すべてが白日のもとに晒される劇行為actionを原理とするアリストテレス詩学を対比項として、作中人物characterが示すわずかなふるまいによってby a chance word or a sigh人物のsecret lifeにアクセスするのが小説の基本的特徴であると説き、flat character / round character、a story:a narrative of events arranged in their time-sequence / a plot:a narrative of events, the emphasis falling on causalityといった概念ツールを提示した。ストーリーとプロットの議論はなかなか面白い。プロットの追跡はいわば探偵の作業。A plot demands intelligence and memory. Mystery is essential to a plot. The plot is the novel in its logical intellectual aspect.だが小説の秘密はプロット分析によって解明され尽くされるものではない。In the novel, all human happiness and misery does not take the form of action, it seeks means of expression other than through the plot, it must not be rigidly canalized. (p.102)。プロットとは戯曲の駆動装置であるが、小説構築を担い切る原理ではない。キャラクターの存在はストーリーの陰影の層においてこそ浮上する。プロットとストーリー・テリングのあわいに構築されるのが小説である。例として引かれるのがジッドの『贋金づくり』と『贋金づくりの日記』。Gide will be enjoyed by all who weary of the tyranny by the plot and of its alternative, tyranny by characters.
後半のfantasy/prophecyの議論はいささか漠然としているが深い。後者の性質をもつ小説にはthe novelist's voiceがあらわれていてthe novelist proposes to singだというあたりはよく理解しきれなかったが、キャラクターの存在様態が問題になっている。キャラクターがおのれ自身のフレームに収まっているのがファンタジー小説であり、そのフレームに収まりきらず読者のほうへせり出してくるのが予言的小説、とでも言えるだろうか。後者の例はたとえば『カラマーゾフ』のミーシャである。Mitya only becomes real through what he implies, his mind is not a frame at all. Mitya is -- all of us. 最後にはpattern/ rhythmといった美術、音楽の比喩を用いて小説の構造が語られる。voice,song, rhythmといった比喩の多用、あるいはプロットに対してストーリーの意義に注意を喚起するような論の展開には、小説を音楽的に捉えようとするフォースターの立場がうかがえるのではなかろうか。本書が刊行されたのは1927年。このころ、文学を科学しようとするI.E.Richards(結論部で紹介されている)が登場する。ロラン・バルトへの道を開くニュー・クリティシズムの夜明けであった。今年はドストエフスキー&ジッド・イヤーにすることを決意した。(2月8日アップ)