セゼール、キンケイド、シュバルツ=バルト、環カリブ文化研究会へ

午前中、子守。Yの最後のオイリュトミー。それから子供たちが輪になって毛糸のひもを使って図形を作りながらの掛け算の授業。さまざまな幾何学模様の出現にみんなびっくり。
午後は本郷の外大サテライトキャンパスにて第2回環カリブ海研究会を聴講。福嶋亮さんのセゼールの発表の途中から入る。雑誌『トロピック』に掲載されたセゼールの詩の分析。灼熱の覇気で「私は世界である」と言い放つセゼールの詩句が大きく広がる。Je pars.と連呼するフレーズには北米プランテーションで生まれたブルースやラングストン・ヒューズの影が差しているのだろうか。
次の三宅由夏さんの「〈こども〉であること−−ジャメイカ・キンケイドによるイギリス児童文学のアダプテーション」はフロイト的アプローチ。キンケイドは曲者である。『小さな場所』にはセゼール的な植民地主義批判の噴出があるが、そのディスクールをどう扱ったらよいものか。ポスト・コロニアルという文脈を外しても十分に読まれうるワンダーランド。語り口に聞こえる「子供」の声。フロイトクリステヴァを引き寄せてもさほど違和感がない。エイミー・ベンダーをふと思い出す。しかし「アリス」のようにオシャレじゃない。"WhatI Have Been Doing Lately"の後半で、親しいと思っていたものどもが「泥」ででできていたという不気味さ…。 個人的には"Wingless"の印象が深い。そこに引かれるCharles KingsleyのThe Water Babies(1863)の一節を目にして、これはもしや、と思い家に帰って調べてみたらやっぱりそうか。マイルス・デイヴィスの1967〜1968年録音の『ウォーター・ベイビーズ』はここから来ている。アルバム・タイトル曲の作曲者ウェイン・ショーターの愛読書がキングスレイだったのだ。「ウォーター・ベイビーズ」を聴き直さねば。
最後は大辻都さんの「民俗学から詩学へ―――シモーヌ・シュヴァルツ=バルトの試み」は、「ティ・ジャン」民話をめぐる旅。グリッサンも「民話は一般化できない物語しか生み出さない」と言うように、神話的偶像となることなく様々な障害をすり抜け、知恵者と愚か者を行き来するおびただしいちびジャンたちは、まさにインプロヴァイザーの冒険を続けるのだろう。『ティ・ジャン・ロリゾン』を読みたいものだ(今日はなんだかこどもづくしだったなあ)。
昨日今日とディープな研究会ツアーだった。このうえなくスリリングで充実していたが、聴いていただけなのに、このところの体調・精神の不調のせいか、終わったときには精根尽き果て、酒を飲む気力も残っていなかった。これを書いてかろうじて復習した。