『狼が連れだって走る月』

 少しずつ味わいながら通勤電車のなかで読んでいったが、ようやく読了。管さんのエッセイはとてもやさしい言葉づかいで書かれているものの、文は精緻に織りなされていて決して読み飛ばすことができない。難解な言い回しを使わずに綴られてゆく深く広々とした思考の軌跡。その軽快かつ緻密な足取りを一歩辿るごとに新しく豊かな風景が広がる。いくつもの分岐があらわれる。それに目を凝らせば追跡の歩みは自然とゆるやかにならざるを得ないのだ。
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 ホノルル、アルバカーキ、シアトルという特権的なトポスを支点として書きだされたいくつもの旅の記録。旅に呼応するいくつもの書評。それらは混血と土地をめぐるものだ。しかし、チカーノにせよ、アメリカ中部の高原砂漠にせよ、そこに行き暮らしたことのない人間にとっては、なんと日常から遥か彼方の風景だろう。それらは圧倒的な他者である。読む者すべてに羨望の念をかきたてずにはおかない自由な旅と移動を通じて提出される、文化へのあたらしい視点。その視点は、都市から荒野へと向かう。
 旅が必然的に孕むエグゾティズムに対する警戒が解かれることはない。混血や土地についても、筆者自身が「クリティカル・クレオーリズム」「クリティカル・ネイティヴィズム」と呼ぶ批判的姿勢のなかで語られる。しかし、まぎれもなく、混血と土地をめぐる旅を通じて筆者が示そうとする世界は、都市の外側である。さらにその射程は自然界へと向かう。そうしたエクリチュールを文化論と呼ぶことすら憚られるかもしれない。
 −−−もちろん人間世界に焦点をあわせ、異文化の壁を見きわめ超えることをテーマにした旅が、そのおもしろさを失う日はないだろう。けれどもその先に、こうしたすべての「文化」の彼方にある広大な非人間の領域を一瞬でも見ようとしないまま生がすぎてゆくなら、それは旅としてなんだか不十分だという気がする。(河出文庫版、p.78)
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 そう。文化の果つる場所にしばし腰をおろし、つかのまの休息をとろうではないか。するときっと身体にふたたびエネルギーが満ちてくることだろう。