駒場の記号学会にて

 Hybrid Reading――紙と電子の融合がもたらす〈新しい文字学(グラマトロジー)の地平〉という魅力的なタイトルに惹かれて、駒場で開かれた記号学会に出かけた。石田英敬×ベルナール・スティグレール×キム・ソンドによるプレナリーセッションを聴講。自分自身も「痕跡とラインの詩学――グリッサンとインゴルドをめぐって」という題でささやかな発表をおこない、とても貴重なコメントもフロアから頂いた。仕事の都合で24日の講演会と25日の最後のラウンドテーブルを聞けなかったのが残念だった。
 「ハイブリッド・リーディングとデジタル・スタディーズ」と題された25日のセッションは、現在の記号論の最先端の議論をうかがう大変貴重な機会だった。最初に石田先生により、ディジタル化時代に生じている「読み/書き」の変容自体に「ハイブリッド・リーディング」という名前が与えられ、現代のリテラシーの根本的ともいえる変化に即応する「ディジタル・スタディーズ」という新しい「一般学」が提唱された。その一般学を構築するにあたって、記号論における文字学としての起源を想起する作業が生じる。デリダによるソシュールの音声中心主義批判――記号学を文字学(グラマトロジー)に置き換えるべきである――を確認しつつ、ライプニッツの普遍記号論への遡行が促される。たしかに、ディジタル化によって急速に変幻自在な流動的かつ力動的なステイタスを浮上させつつある文字と読書環境のありようを正確に捉えるためには、音声の代理記号といった従来の限定的な書字理解ではとうてい追いつかないだろう。文字は物質としてそれ自体の存在を主張しており、さらにディジタル化においてダイナミックな変容を示している。紙でできた冊子本Codexは三次元の記憶構造体でありそれが廃絶されることはないだろうと石田先生は述べる。しかし、来るべき読書は本質的にハイブリッドで拡張された読書となる。たとえばi-Padといった端末によりわれわれは読書の痕跡を書き込み可視化させることで新たな読み書きのインターフェースをつくりだす。i-Padをフロイトが「心的装置」のモデルに選んだ「不思議のメモ帳」に例えるお話しは面白かった。ディジタル・ツールは現代の「心的装置」として読書という作業を「横断的個体化trans-individuation」へと変化させ人文知の在り方を再組織化させるきっかけとなる可能性を十分に孕んでいる、と石田先生は締めくくった。
 だが、知の環境のディジタル化は精神の生に弊害をもたらすことはないのか? ベルナール・スティグレール氏の講演は、その疑念を念頭におきながら、デジタル的痕跡に「器官学organologie」「薬方学pharmacologie」の視点からアプローチする。そもそも「過去」はどうやって把捉されるのか。氏はデリダフッサール批判(現在の時間における知覚による第一次過去把握/記憶による第二次過去把握という二項対立的図式の批判)を拡張し、カントの『純粋理性批判』における三つの総合(直観/悟性/理性)の議論を援用しつつ、第三次過去把握――人工的な複製と時間の反復すなわち空間化をもたらす非生物的な痕跡、に注目する。その痕跡とはすなわち文字化のプロセスなのである。第三次過去把握はカントにおける「図式機能」に相当する(理性ではない)。では過去を把握する痕跡がディジタル化すると何が生じるのか? ディジタル的第三次過去把握が第一次過去把握と第二次過去把握を変容させ(直観のシュミレート、悟性の分析的な力の自動化の到来)、その状況が未来予持の前方投射をになう理性に著しい作用をもたらすという事態である。こうしたディジタル痕跡の活動を、スティグレール氏は器官学、薬方学的に捉えようと試みる。精神の生は本質的に外在化すなわち表現の条件から構制されている。ルロワ=グーランが指摘した二足歩行によって始まる技術的外在化はつねに精神の委縮を引き起こす契機を内包している。だがその外在化のプロセスは有害であると同時に潜在的有益性を孕むファルマコンである。毒にして薬であるファルマコンを適切に処方するためには、技術的生を新たな生とみなす一般器官学の視点が必要である。有機体の記憶を破壊するといった電子的記憶の危険性への危惧はニコラス・カーらによって指摘されているが、まず古代より知の器官学的基底材であった人工的な知の器官である文字の性質を正確に理解すべきだろう。そもそも、紙やパピルスや大理石に刻まれた文字が脳に収められるとき、それらの心的装置は個人の脳に還元されず、社会すなわち複数の脳を介在する象徴的装置を経由している。電子的な心的装置に移行する前の文字の段階からすでにそうした状況が現れているのである。ディジタル以前の文字とディジタル痕跡を通底する一般的視点に立ってみよう。そのために有機的な生きた記憶から器官学的な生きた記憶へシフトしてみよう。器官学的な記憶とは、外的記憶の基底材から構制された痕跡を内面化するものである。個体の有機的記憶は器官学的な記憶によってつねに再構成されるものなのである。このように考えてゆくと、知とは横断個体化の回路であることがみえてくる。個体とはその回路を内面化してゆく存在である。内的記憶は、外的記憶を起源とする横断的個体化の回路の内在化を前提にしているのだ、とシュティグレール氏は主張された。
 記号の物質性への注視は、今日のディジタル・セッションにおいて重要な原理的主張である。最後のキム・ソンド氏による「極東における間メディア性の考古学試論」はエクリチュールの間メディア性という大きな視点を提出するものであった。氏もまた現代のグラマトロジーの閉域を乗り越える必要を唱える。エクリチュールを正確に把握するためには、まずそのグラフィック性と物質性への考察が必要となる。記号学に文化的・歴史的な厚みが介入する。「エクリチュールは…口語的コミュニケーションとりずっと強力な道具である」というロイ・ハリスの意見を氏は敷衍してゆく。エクリチュールの人類学に目を向け、さらに書字をルロワ=グーランのようにグラフィックな象徴表現のレベルに引き戻して考えてみると、言語活動とグラフィックな表現が従属関係ではなく、連係関係であることが見えてくる。読むことと見ることはきわめて近い。エクリチュールの果たす役割はパロールの再現といった限定的なものではない。こうしたエクリチュールへの視点から、中国・韓国・日本における漢字をめぐる比較歴史学の必要が説かれる。そこでエクリチュールは社会空間や政治経済のレベルで考察される対象となる。日本の絵本、韓国の16世紀の挿絵入りテクスト、書、ハングル舞踏...氏の記号論表音文字表意文字の歴史のパラレル性を踏まえ、エクリチュールの物質性、身体性、社会文化的複合性に大きな注意が払われているといえるだろう。それは東アジアのエクリチュールに通暁する者にのみ可能な作業であるように思われた。
 さて、今日の議論を踏まえ、インゴルドによるライン人類学とグリッサンによる痕跡の詩学をどのように考えるべきか。一見単純にもみえるインゴルドの議論が斬新なのは、記号あるいはエクリチュールを「ライン制作」というきわめて物質的レベルに落としこんで捉えるところにある。writingもdrawingもともにmaking linesなのである。そこに文化人類学者としてのインゴルドの面目がある。すなわちあくまで物質的レベルで対象の考察に徹する態度である。インゴルドもルロワ=グーランを大きく引用していた。グリッサンはいわば痕跡の解釈学である。残された記号(グリッサンの場合は書字と口承性の関係、風景、クレオール語といった文化形象が問題となっている)をどうやって読み取るのか。文学という場で研究されるグリッサンの詩学は文化事象を痕跡から追跡する考古学的姿勢を持ち合わせている。その手つきにわれわれは気付くべきであろう。そもそもグリッサンはパリで民族学や人類学の勉強もしていたのである。
 それにしても、やはりデリダとルロワ=グーランである。とにかく、デリダのグラマトロジーをしっかり勉強するところからやり直さなければならないことを痛感した。それだけでも大きな収穫だった。(9/1記)