セルバンテス『ドン・キホーテ』4(後篇一)

コロナに感染してしまった。Uの中学で感染生徒が急増し、16日にUが発熱。2日後にぼく、さらに2日後に妻が発熱。抗原検査やPCR検査で全員陽性だった。幸い3~4日で熱が引き、重症化は免れたが、20日の読書会はキャンセル。とりあえず、本巻の感想を20日の日記として埋め込むことにする。

 

後篇に入ると、物語の構造はさらに複雑化する。p.55に記されているように、前篇のドン・キホーテサンチョ・パンサの物語が『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』として巷に出回っている、という設定なのである。ドン・キホーテは学士カラスコからそれを知る。騎士物語を耽読した結果騎士物語を再現しようとしたドン・キホーテは、すなわちこれ以後、自らの行動が一種の騎士物語的エクリチュールに回収されていることを知りつつ行動することになる。そしてドン・キホーテ自身、自らの行動がどのように報道されているのかが気になって仕方がない。「事実わしは、いま印刷されて出回っているというわしの武勲を描いた物語においても、万が一その作者がわしに敵意を抱くような賢人であったとすれば、そいつが事実をゆがめたり、ひとつの真実に嘘八百をまじえたりすることにより、真実の物語の本来の流れから大きく逸脱した、くだらぬことばかり書き立てて面白がっておるのではないかと、そのことが気がかりでならぬ。」(134頁)

彼の行動は、エクリチュールに追いかけられているのである。描く自らの手を描くエッシャーのだまし絵のように、フィクションのふたつのレベルは接近していく――その接近は、騎士物語についてのメタフィクションの生成へと向かうのか。それにつられるかのように、ラ・マンチャ郷士はフィクションに対する自覚を口にするようになる。「サンチョよ、わしはお前に芝居というものをよく理解して好意を抱き、ひいては、それを演ずる役者や芝居を書く者たちにも親しみを覚えてもらいたいのじゃ。なぜかといえば、芝居はいずれも、そのに人間生活のさまざまな局面における実相が生き生きと写し出されている鏡を、われわれの前に次々と置くことにより、国家に対して大きな交戦をする手段だからじゃ。まったくの話、われわれの現実の姿を、またわれわれのあるべき姿を鮮やかに描き出すということに関しては、芝居に、そして役者に比肩しうるものはない。」(190-191頁)。憂い顔の騎士殿、イオンとともにプラトンを叩き潰そうではないか。