ECMの真実 ピーター・バラカン×稲岡邦彌

永らくトリオ・レコードでECMの日本盤リリースを手掛けてきた稲岡さんとピーター・バラカンさんのトークを聴きに神楽坂の赤城神社に駆け付けた。司会進行は仲野麻紀さん。それにしても赤城神社には度肝を抜かれた。なんとモダンな神社であろうか。神社に「モダン」という修飾は妙だが、行けば納得します。ガラス張りでライトアップされた社殿の横から地下におりるとそこが会場だった。いったいここは神社なのか?

ECM盤はぼくの青春のマイルストーンのひとつ。30㎝LPジャケットの広々とした空間に広がる茫漠とした風景を僕は好んだ。トークの後半はもっぱらキース・ジャレットが話題になった。キース関連では新しい情報はなかったけれど(いやあった、キースが息子のパーカッショニストGabriel Jarrettと吹き込んだ、『日本~空からの縦断part 2』というLDとして1990年頃発売された音源が近くリリースされる。これは僕のキース・コレクションのなかで唯一抜け落ちていたものなので、楽しみ!)、トークのなかで自分にとって要チェック盤が浮上した。たとえばウード奏者アヌアル・ブラヒムの『Thimar』、ヤン・ガルバレクとヒリアード・アンサンブルの『Officium』(超有名盤だがたぶん聴いていない)。それにピーター・バラカン氏が触れていたロビン・ケニヤッタの『Girl From Martinique』は初期ECMの異色作。これもしばらく探していたが、その後忘却していた一枚。会の最後でフロアから稲岡さんとバラカンさんに「ジャズの現在地はどこでしょうか?」という質問があったが、お二人の解答と同じように、ぼくも状況は混沌、なんでもあり、だと思う。仲野さんのおっしゃるように、ジャズはディアスポラの音楽であり、場所を奪われた人々によって生み出された音楽である。だがそれは世界に拡散し、今ではアメリカ以外の地域で生まれる「ジャズ」が多様で面白い。ぼくは、ジャズの本質とはその融合性にあると思う。20世紀前半に発展したアメリカ・ジャズの音楽語法は、その境界を閉じることなく世界各地の民族音楽やテクノロジーを取り込み自らを変容させてきた。(その一方にウィントン・マルサリス一派のようなジャズを博物館に入れる仕事もあって、それはそれで伝統芸能の伝承として意味はあるが。)ルーツにアメリカ・ジャズを持ちながら、即興を主体に自由に広がる音楽がジャズなのだろう。ECM=マンフレート・アイヒャーの功績は、ジャズのトポスをアメリカからヨーロッパに拡張したところにあるだろう。