カフカ 『城』

 ついに「城」には辿りつけないのだった。執筆中断によって、われわれはゲスルテッカーの家に入ったところでKとともに取り残されるのだ。「城」という官僚システムのまわりに抑圧されたまま蛇行する物語の群。核心部が隠蔽されたまま腹の探り合いが続くコミュニケーションの連鎖。われわれはそのなかをかき分けて進むしかない。どこに辿りつくとも知れず。「ほんとうのことを言わないのだね。どうしてほんとうのことを言わないの?」Kを問い詰める貴紳亭の女将の言葉(池内訳全集、p.424)はこの未完のテクスト全体に投げつけられる問いでもある。そのなかでオルガが妹アマーリアの事件(城の役人に性的奉仕を強要され拒絶したために、一家が村八分にされた)を語る部分は際立って「真理のディスクール」を形成する。この部分において「城」の秘密がようやくわずかに露わになるのだ。しかしオルガの口上もまたそれ以後のさまざまな立場の語りのなかに埋もれていく。すべては曖昧のまま。フリーダがなぜKの許を去ったのか、その理由もついには明らかになることはない。こうした不透明な語りの束のさなかから、行きつけぬ「意味のむかうべきかなた」(池内解説、p.435)としての「城」が浮上してくるのだ。或る意味で、グリッサンはカフカ的でもある。グリッサンにとって、「城」は「関係」である。
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 池内氏の解説によれば、草稿ノートを観察すると、カフカは創作を開始するときにプロットを立てずにペンを取り、書きながら次第に物語を生みだしてゆくことがわかるのだそうだ。「書きながら追いつく」と自ら語るカフカはペンを手に取ったとき、どのような筋立てのもとに、いかなる人物があらわれてくるのか、まるで知らない。これは、improvisationとでもいうべき書き方である。キース・ジャレットが『セレスチャル・ホーク』(1977)として発売された即興ピアノパート付きの協奏曲を書いた時、まさしくそういう風に書いたのだ。ルー・ハリソンガムラン音楽のようなオリエント趣味で耽美的なこの作品の評価はさておくとしても、カフカの書き方はキース・ジャレットの創作態度と通底するものがあるような気がする。「即興の詩学」ともいうべき通底器が作動しているような気がするのだ。キース・ジャレット・トリオの『スタンダーズ・ライヴ』(1985)のLPジャケットに描かれたカフカのドローイングを眺めながら、そう思った。