アニメの芸術性

 大塚さんのナビでWC研初のアニメ映画特集。まず日本の若手作家の短編ををいくつか見る。最初の銀木沙織が一番不気味だった。カフカ的。三角芳子の『Googuri Googuri』(2010)は「大きな古時計」的メルヘン。子供に見せたい。大山慶はベーコンのタブローを思い出させる。繊細な線を使う和田淳の作品にはフォトショップの基本的動きが素直に出ている。今日見た日本の若手の作品には日常性が前提となっているものが多いが、和田の『係』(2004)はほのぼのとした不条理が見る者の頬を緩ませる。「不合格」の札を貼られた象が怒って(?)係員を食べちゃうところが笑えた。
 休憩のあとは「巨匠」の作品を3つ。山村浩二カフカ 田舎医者』(2007)はCGを使わず手書き! 膨大な仕事量だ。歪む形が斬新。ヤン・シュヴァンクマイエルは言わずと知れたチェコの遅れてきたシュルレアリストだが、『フード』(1992)には自身の摂食障害のトラウマが投影されているそうだ。機械化される「食」に対するウディ・アレンのような(違うか...)ブラック・ユーモア。最後のロシアの作家、東欧系ユダヤユーリ・ノルシュテインは本日の最大の収穫。『話の話』(1979)は断片的な物語ないし場面が即興的に連鎖する詩的作品。シャガールの描くルボーク的世界に通底するものを感じる。母親のおっぱいを吸いながら「ねんねしないと灰色オオカミに連れて行かれるよ」と子守唄を聴かされる子供のかたわらにいるかわいいオオカミがメイン・キャラクター。全篇にちりばめられる「光」。光るリンゴ、家の中(外?)から差す光、竪琴を抱える詩人が歌を書きつける紙もまた光る。「光」は命・記憶・物語のシーニュであり、作品に一貫したメッセージを与える。オオカミが詩人から奪った光る紙が途中で赤ん坊に変容し、泣きやまない赤ん坊をおろおろしたオオカミが必死であやす結末が面白い。