トドロフ『他者の記号学――アメリカ大陸の征服』

 コロンブスやコルテスらによるアメリカス「発見」と征服。インディオとスペイン人との接触を「コミュニケーション形式」という視点から分析したコロニアリスム研究の古典を通読した。原著は1982年、翻訳は1986年に出た。分析されるテクストはほぼ征服者側のものである。コンキスタドールという他者の到来を、自分たちが理解する神や自然や社会の網目によって解釈し、コルテスをケツアルコアトル神の到来だとみなしてしまうインディオの「人間対世界のコミュニケーション」。ことばを世界の忠実な反映である前にインディオという他者を操作する手段としてとらえるスペイン人の「人間対人間のコミュニケーション」。記号学者ならではの手際よさで16世紀アメリカスの文化交配=植民地化読解ツアーへと読者を連れだすトドロフは、コロンブス、ラス・カサス、ディエゴ・ドウラン、ベルナルディノ・サアグンらのテクストをてきぱきと整理する。その作業において浮上するのは、他者に対する関係の仕方をはかる3つの軸である。すなわち愛憎など他者への価値判断の軸、相手を征服するか相手に追従するかといった他者との距離を示す実践論的な軸、他者のアイデンティティ理解という認識論的な軸である。そうした物差しを用いたラス・カサスとコルテスの比較は鮮やかである。また、征服を企てるスペイン人が交渉の過程で駆使するコミュニケーションの特徴として「即興と適応」を指摘する点も興味深い。この表現は全篇を通じて何度か反復される。「即興」の能力は征服者に必要とされる才能なのだ。このあたりは示唆に富んでいる。
 「他者とは発見すべきものである」(p.343)とトドロフは言う。しかし他者の発見による自己の変容という重要な側面をトドロフは素通りしない。キリスト教普遍主義という至上命題が掲げられているにもかかわらずラス・カサスには「中立的な愛」が見られ、行商人からシャーマン(!)になったカベサ・デ・バカには現代の亡命者の経験が象徴的に予言されている。結論部の次のパッセージのインパクトをあらためて噛みしめたい。
 「新大陸の征服という事例史を通じて私たちが学んだのは、西洋文明が勝利をおさめたのはとくに対人間のコミュニケーションにおける優越性のおかげだが、この優越性の確立は、世界とのコミュニケーションを犠牲にしておこなわれた。」(p.349)「エコロジー」という環境認識への態度が人間の相対化を前提とするならば、このパッセージはエコロジカルだといるだろう。また、グリッサンにおける「世界」への叫びもここで思い出すことができるだろう。それは、あゆる文化事象の徹底的な相対化を意識する世界観である。